9 興味ある証言

 帳簿付けを終え、そろそろ事務所を引き上げて部屋にいこうかという夜八時ごろになって、ひとりの客がやってきた。
「こんばんは」
「はい、いらっしゃいませ」
 事前になんの連絡もなしに事務所に直接やってくるというのはめったにあるものではないが、たまにはそんな変わり種もいた。
「その節はどうも」
 まだ二十代前半といった年頃の男は、そう言ってにっこり微笑みかけてきた。
「ええと? ああ、高階さんでしたね」
 佐々木の部下で、葬式のとき受付を手伝ってもらったりした男だった。
「近くまできたものですからちょっと寄ってみたんですが、まだ仕事中でしたか?」
「いえいえ、いま終わってひと息ついてたところですから。どうぞ、そのへんに適当にすわってください」
「じゃあ、遠慮なく」
 高階はドカッと、身体のバランスを崩しそうになりながら椅子に腰を下ろした。よくよく見ると、顔はほんのり赤く染まっていた。
「酒が入ってるんですか?」
「ええ、さっき夕飯を食べたときにビールを一杯。車、そこの駐車場の空いたところに止めたんですけどかまいませんか」
「うちで借りてるスペースですから大丈夫です」
 軽トラックは昨日から仲間の便利屋に貸してあった。
 萩野が呆れ半分に見やっているのが目に入らぬかのように、高階は顔を四方八方に向けて事務所の隅々を眺め渡した。
「便利屋さんていうのは、あまり儲かるものじゃないんですか?」
 むっときながらも、努めて穏やかに言う。
「まあ、ぼちぼち食っていく程度というところですかねえ」
「そうですか。忙しそうだったら僕を雇ってもらえないかとも思ったんですが、無理でしょうね」
「はあ? いまの仕事はどうする気ですか」
 高階は下を向いて黙りこくってしまった。
「いよー」
 すっとんきょうな声を張り上げて入ってきたのは関口だった。「あ、お客さん。失礼、外で待ってるよ。あれ、佐々木さんの会社の方じゃなかったですか?」
「あ、刑事さん」
 そう言い合ったあと、二人は向き合って互いに相手を指差した。
「ハギさんの知り合いだったのかい?」
「ええ、まあ。葬式のときいっしょだったものですからね」
 高階に顔を向けると、その目は無言のうちに逆に萩野と関口の関係を問いてきた。「ハム仲間なんですよ。それでたまにこうやってクダを巻きにくるといいますかね」
 ああ、という顔をして高階が言う。
「そういえば刑事さんもアマチュア無線をやってるって言ってましたねえ」
 今度は萩野が尋ねる番だ。
「どこでいっしょだったんですか?」
「いや、会社に事情聴取にいったときにね。いろいろ話しを聞いたもんだから」
「なるほど、そうでしたか」
 高階がそれまでふにゃふにゃしていたのが、急にシャキッとなって立ち上がった。
「それじゃ、僕はこれで失礼しますから」
「いまきたばかりじゃないですか。隣りからコーヒーでもとりますから、ゆっくりしてってください。それに、少しでも酔いを覚ましていった方がいいですよ」
 萩野は腕を高階の首と肩に絡めるようにして、椅子に押しとどめた。関口も高階の赤ら顔に気づいて言う。
「きょうは週末ですからね。あちこち取り締まりが出てますから捕まりますよ」
「ふふ」
 刑事から教えてもらった気まずさからか、高階は関口の顔をちらっと見やってから笑った。「でも、もうよけいな詮索はごめんですよ」
 今度は関口が苦笑いを浮かべる。
「ひととおり聞きましたから、少なくともいまは聞くことはありませんよ」
 犯人はなんらかの形で佐々木に関わった者と推測されている関係上、警察の事情聴取は美圭や奥さんはもとより萩野自身も、そしてまた佐々木のハム仲間もいろいろ質問される羽目になっていた。
 当然のことながら佐々木が勤めていた会社でも執拗におこなわれ、数日前関口は、「会社に足を運ぶ回数が増えるにしたがって社員からは煙たがれるようになってきたよ。元同僚を殺した犯人を捕えるためなんだからわかってもらいたいね」と、苦りきっていた。
 表面上は第三者の不審人物を洗い出すための事情聴取という形態をとってはいたが、もちろんその目的もありはしたが、友人や知人の中にそれらしき人物がいないかを探り出す色彩も帯びていたので、ハム仲間のひとりは、「まるで僕らの中に犯人がいるみたいな尋ね方をするんですよねえ。趣味の仲間に利害関係なんてあるわけないんですからね。関口さんはどう考えているんですかねえ」と、それとなく関口に抗議の意思を伝えてほしい旨を暗示してくるのだった。
「警察が引っかき回していったおかげで、社内はお互いが疑心暗鬼になって雰囲気まで暗くなってしまっていけませんよ。佐々木部長がいたころはよかったんですけどねえ」
 ああ、と思った萩野が質す。
「さっき辞めたいようなことをおっしゃいましたけど、そのことと関係あるんですか?」
「それもありますけど今度の部長がねえ。やたら威張り散らす人でしてね」
「ああ、佐々木さんの後釜に製造部から異動された刈谷部長のことですね」
 という関口の言葉に、高階は上目遣いに睨みつけた。
「えーと、喫茶店に電話しますけどコーヒーでいいですか?」
 と言って受話器をとろうとする萩野を、関口が制して言う。
「いいよ、俺が直接いってくるよ」
 関口は二人の意向を聞くこともなしに踵を返し、すぐ外に出ていった。
「警察の聞きこみには我々ハム仲間も閉口しているところがあるんですが、佐々木さんの事件も稲城の事件もアマチュア無線が密接に絡んでますからね。半ば諦めの心境でいますよ。それに僕らは赤の他人だからまだいいですよ。佐々木さんは生命保険に何口か入っていたらしいんですけど、受取人は当然奥さんになってましたからさんざん嫌なことまで訊かれたらしいですよ」
「フヘ、ご主人を亡くされただけでも大変なのに、犯人にまで仕立てあげられたんでは立つ瀬がないですねえ」
「ほんとにねえ。そういうわけですからここしばらくは人相の悪いのが会社をうろちょろするでしょうけど、なにか訊かれれば事実だけをハイハイ答えていればいいわけでしてね。変に気することはないんですよ」
「あの目付きの悪さは、下手をするとヤクザと見まちがいますねえ」
 高階は小気味よさそうに薄笑いを浮かべて言った。
 関口は隣りにいったにしては時間がかかり過ぎで、もどってきたのは十五分もたってからだ。手元には食品が入った白の買い物袋が下げられていた。
「さあ、これで一杯飲もうや」
 机に上に広げられたのは缶ビールとツマミ類だった。
「なに言ってんですか、高階さんは車ですよ」
「ひと晩ぐらいハギさんのところに泊まるなり、車を預かってやればいいじゃないか。ね、いいでしょう。こんなときはグイッとやるにかぎりますよ。それに刑事の見ている前から酔っ払い運転をされても困りますからね」
 これには高階もひと言もないようすで、ただ苦笑いを浮かべるばかりだった。
 缶ビールをカツンとやって形だけの乾杯をしたあとは、萩野の便利屋稼業の見た目ほど楽じゃないのだという説教じみた講釈がひとくさり続くこととなった。
 看板をあげてからまともに仕事が入ってくるまでの半年か一年は赤字覚悟でやること。そのためにはそれ相応の貯金をあらかじめ貯えておくしかないこと。3Kの仕事はどうのこうのなどと戯言を言っていられるようなものではなく、くる仕事は公序良俗に反しない限りどんなもものでも引き受けること、などなど。
 ビールの助けも手伝って萩野は雄弁に語った。だが高階は、うんうんうなづいてはいたものの視線はどこかぼんやりしていた。
「ま、そんなわけで人手が二人以上必要なときは仲間の便利屋といっしょにやるようにするんですけど、常に人を雇ってやっていけるほど仕事はないですね」
「そうですよねえ。一サラリーマンでいると気づかないでしまうんですけど、仕事をとってくるというのはけっこう大変なことなんですよねえ」
「ほんとにやる気があるならノウハウはいくらでも教えますけど、高階さんは技術者としては優秀だし、将来的に有望な人だって佐々木さんから聞いたことがありますよ。それだったらいまの仕事を続けていった方が高階さん自身のためになるし、会社にとってもよけいな損失をつくらずに済むわけじゃないですか」

缶ビール

 アルコール変調の為せる業とはいえ、ちょっともち上げ過ぎかとも思ったが、最後の言葉には高階は照れ笑いを浮かべながらも満更でないようすで聞きいっていた。
「佐々木部長には手とり足とり教えてもらって、いろいろかわいがってもらいました。それが突然あんなことになっちゃいましてねえ」
「新しい部長さんは、そんなにいやらしい人なんですか?」
 それまでビールを飲んでツマミを口に運んでいることに専念していた関口が、ここぞとばかりに訊いた。
「うまく言えないんですけど、ちょっとでも気にいらないことがあるとすぐ怒鳴り散らすんですよ。なにかも自分の思いどおりにことが進まないと満足できないタイプなんですね。佐々木さんじゃなくて、あいつがくたばってくれたらよかったんですけど」
 高階は缶に残っていたビールを一気に飲み干した。
「ふんふん、よかったらこれもどうぞ」
 関口がそれとなくもう一本の缶ビールを差し出す。「あの方は以前は製造部にいたんでしたね?」
「ええ、製造ラインの課長ですよ」
 と、吐き捨てるように言った。
「ほお、すると今回の事件を契機に出世したことになりますね」
「そういうことになるんでしょうね。設計部には年齢的にも技術的にも全体をまとめきれる人材がいないということで製造部から廻ってきたらしいですよ。もっとも以前は設計部にいたらしいですけどね」
「へえ、それがなんでまた製造部にいってしまったんでしょうね?」
「さあ、僕が入社する前のことですからよくわかりませんけど、聞いた話では技術者としては優れたものをもっていたらしいんですが、性格的に問題があって製造に飛ばされたということらしいですよ」
「ふむ、年は佐々木さんより若いと思うんですが、今年いくつになるんですかね」
「社員名簿で見た記憶ですけど、確か同じだったと思いますよ。ただ社歴は刈谷部長の方がずっと長かったですね」
「え・・? ちょっと待ってくださいよ。それじゃ同じ設計にいた後輩の佐々木さんの方が先輩を抜いて先に部長になったということですか」
「まあ、そういうことになるんじゃないですか」
「ふーむ、それじゃ刈谷さんとしては心中穏やかじゃなかったでしょうね」
 すると、これもまた高階がぶっきらぼうに言う。
「ああいう人間性ですから自業自得ってとこじゃないですか。新潟の系列会社に指導のため一年間出向する予定でいたらしいんですけど、そのままいってくれりゃよかったんですよ」
「その、刈谷さんを嫌っているのは高階さんだけですか。それとも設計部の中ではみなさんに敬遠されてるんですか?」
「若い連中はみんな嫌がってますよ。このぶんだと僕が辞めなくても誰かは退職してしまいそうですね」
「そうでしたか、それにしても初耳なんですよねえ。私もほかの刑事も、そんなことは誰も聞いてませんでねえ」
「会社の中で言えることじゃないですよ。それと、僕がしゃべったというのは黙っててくださいよ。仕事がますますやりにくくなりますからね」
「ええ、わかってます。高階さんに迷惑をかけるようなことはありませんよ。ときに刈谷さんはアマチュア無線はやっておられるようですか?」
「さあ、どうでしょう。うちの会社はこういう業種ですから工場勤務の社員の中には、ハムの従事者免許はもとより電気関係の資格をもっている者は多勢います。部長も無線技術士の資格をもっていますけど、アマチュア無線をやってるというのは聞いたことも見たこともありませんけど・・・」
「けど、なんですか?」
「そういえば最近車にアンテナがあがってたような気がしましたけど、FMラジオ受信用のアンテナかもしれませんね。アマチュア無線は高い知識と技術をもってる奴ほど小馬鹿にしてやらない傾向がありますからね」
「はあ、なるほど。ところで刈谷さんの車は、黒のライトバンでしたっけ?」
「いいえ、白のセダンタイプですよ。ああ、もっともハッチバックスタイルですから、バンといえないこともないかもしれませんね」
 このとき関口は一瞬きらり光った目で、萩野を意味ありげに見た。
「刈谷さんはそんなに優秀な人なんですか?」
 その質問に高階が逆に、すっかり充血した目で覗きこむようにして訊く。
「部長が怪しいんですか?」
 その問いかけに対しては、それまで黙って聞き入っていた萩野が怒鳴るようにして言う。
「そんなはずはありませんよ! たいした大きな体つきでもなし、ましてやあんな神経質そうな人に人間を殺せるわけがないでしょうが」
 さらに関口が相槌を打つように言う。
「いや、そのとおりですよ。特別刈谷さんを疑っているわけじゃありません。刑事の哀れな性とでもいうんですかねえ。人を見たら泥棒と思え、という諺があるでしょう。刑事の仕事というのはまさしくそれなんですよ。ですからハギさんも高階さんも、怪しいといえば怪しいということでしてね、ハッハッハ」
 高階はそれまでの笑みを消して悪酔いしたような仏頂面になり、三本目の缶ビールを喉をゴクゴク鳴らしながら一気に入れてやった。
「プハッー、寒いときに飲むビールもいいもんですね」
 隅の方に申し訳なさそうにおいてあるストーブを皮肉ってのことか、実感としてそう言っただけのことなのか判断は尽きかねたが、最後には空缶を机の上にガツンといわせておいた。
 関口がけしかけるように言う。
「飲み足りないんなら買ってきましょうか」
 ところがその言葉は無視し、一転して高階の矛先は萩野を向く。
「萩野さん! 訊きたいことがあるんです」
 鬼の首でもとってやろうかという様相で萩野を睨む。
「はい、なんでしょうか?」
「あのですね」
 今度は逡巡してうつむいてしまった。
「なんですか。やっぱり仕事を辞めたいというのは本気なんですか?」
「違います、そんなことじゃありません。美圭さんのことです、佐々木さんの娘さんの」
「はいはい、美圭がどうかしましたか?」
 するといきなり顔を上げて、萩野に噛付きでもするかのように額を擦りつけた。
「どうして萩野さんが美圭さんのことを呼び捨てにするんですか?」
「えっ。いや、ほら妹みたいなものですからね。佐々木さんからも変な虫がつかないようによろしくって言われてましたしね」
「はあ、なるほど。そうですよね、女子校生と三十のおっさんがねえ。ふ、ふ・・」
 勝手に思って勝手に解釈して、高階はあふれ出る笑みを抑えきれないようすだ。関口も咳きこんでいるかのように、口を手で押さえて込み上げてくる笑いを噛み殺すようにしていた。
 高階は頬を両手で「バチッ」とやると、ニヤけた表情からマジな顔に変化させた。
「それで美圭さんには誰か彼しがいそうですかねえ。できたら萩野さんに口をきいてもらえたらと思ってるんですけど、お願いできないでしょうか」
「そ、そうですね。ただ、いまは受験勉強で忙しそうですからね。受験が終わるまではそっとしといた方がいいと思いますけどねえ。ね、どうなんでしょうね」
 と、関口に助けを仰いだものの、関口はいつのまにかガラス戸越しに外の景色を見やり、背を向けていた。その背中はこらえてはいるものの明らかにゆらゆら揺れ動いていた。