8 信じがたい話  その2

 緊張のうちに二階に上がり、いちばん奥の部屋のドアの前に立つ。関口が、いいね、という合図に二人を見て首をこくっとする。二人も喉をごくりと鳴らしてうなづくと、関口はおもむろにドアを二度叩いた。
「はーい」
「ちょっとすみません」
 関口がとぼけた声で応答した。
「はい、なんでしょうか?」
 当然といえば当然なのだが、学生は深夜の客にドアを小さく開いただけのあからさまな警戒のポーズをとった。
「ああ、どうも。こんな夜分にすみません」
 関口は顔中愛想笑いをニコニコ浮かべてはいたが、足はドアの隙間に突っこみ、ドアを手でぐっと開くと胸元から手帳を取り出して見せた。「こういう者なんですけどね。実は私もアマチュア無線をやってまして、先ほどお宅らがラグチューをやっていたのを聞いてたんですよ」
「はい」
 学生は腰が引きぎみになりはしたが、それがどうかしたか、とでも言いたげに眉間にしわを寄せた。
「それでお宅の使ってるトランシーバーなんですけどね」
 関口はそう言いながら足を一歩踏み入れ部屋の奥を覗きこんだ。すると学生は、反射的に関口の視界を遮ろうと身体を横に動かした。
 1K造りの部屋だけにその三分の二ほどはひと目で見ることができ、トランシーバーは壁際の机の上においてあった。
「あれ、君が買ったわけじゃないね」
「い、いや」
 学生は一歩後退りして顔面蒼白になる。
「美圭ちゃん、こっちにきて」
 言われるがままに美圭は関口の横に立ち、恐る恐る学生の顔を見やった。
「あー、やっぱりあのときコンビニにいた人だわ」
「あっ! あのとき車に乗ってた」
 学生は茫然となって、その場にひれ伏すように土下座した。「すみません、つい出来心なんです。トランシーバーは返しますから許してください」
 頭を畳に擦り付け、身体はわなわな震わせていた。
「そんなことで罪が消えてしまうほど世の中甘くないぞ。ちょっと入らしてもらうよ」
 関口は部屋の中に入ると、完全に刑事の目付きになって周りを探るように見渡した。
 萩野は壁にもたれかかって、大きく息を吐いた。気がつくと隣りの住人がドアをこっそり開け、有明海のムツゴロウのように目だけを突き出すようにしてこちらのようすを伺っていた。
「あの、近所迷惑になってもなんですから、僕らも中に入らしてもらっていいですか?」
「あ、どうぞ」
 学生はまるっきり憔悴しきたったようすで言った。
 あらためて机の上のトランシーバーを見ると、それは紛れもなく佐々木の車に積んであったトランシーバーだった。六畳一間にほかにはラジカセ、テレビとファンシーケースがおいてあるだけの、学生が住んでいる部屋としては小ざっぱりとした標準的な様相を呈していた。
「いろいろおいてあるけど全部盗品かい?」
「いえ、トランシーバーだけです」
 学生は犬が水を切るときにする仕種のように、頭を思い切りぶるぶる横に振った。
「嘘をつくんじゃない」
 関口は一段と声を荒げる。「ほかにも首都高速の回数券とか女物の洋服なんかも盗んだろう。調べはついてるんだ」
「あ、すみません。女物のワンピースはとりました。でも、あとは一切手をつけてません」
 関口は学生の一挙一動を見逃さないかのように、瞬きすることなく睨みつける。「ほんとうです、すみません」
 学生は消え入りそうな声でつぶやき、正座したまま両肩をすぼめた。
「そのワンピースは彼女にでもあげたんですか?」
「いえ、そこにあります」
 そう言って指差した先はファンシーケースだった。
「え? 男のあなたがあんなものを持っていてどうするんですか」
 学生はなにも言わずうつむいたまま、顔を真っ赤にした。美圭は呆れ果てたようすで言い放つ。
「いやらしい。もういいです、あなたにあげます」
 すると、関口が苦笑しながら言う。
「いや、勝手に決められても困るんだ。大事な証拠物件だからね」
「全部返して弁償もしますから。ほんとにすみません」
 学生はいまにも泣きだしそうな雲行きだった。
「JF4のコールですけど、田舎はどこなんですか?」
 少しでも気持ちが和らげばと思って萩野が訊いた。
「鳥取です」
「こういう旧型のトランシーバーなら、中古屋にいけば二、三万円も出せば買えるんですよ。それを車泥棒までやるなんてどういう了見ですか? 田舎のご両親が知ったら嘆き悲しむなんてものじゃないでしょうよ」
 萩野はいっぱしの刑事にでもなったつもりでいた。
「魔が刺したんです。トランシーバーは欲しいと思ってましたし、エンジンをかけたまま二人とも店の中に入っていったものですから、つい悪い気を起こしてしまって。ほんとにすみません」
 学生は畳の上に涙をボタボタしたたり落とした。
「よし、動機はそれでいいとして羽賀君とかいったな。顔を上げて俺を見るんだ」
 学生は涙を拭き拭き、目をしばたかせながら気持ち程度顔を上げた。「いいか、性根を据えて答えてもらうぞ。佐々木さんを殺ったのは君か?」
「はあ?」
「彼女のお父さんさ。車を運転していた人だよ」
「ああ、はい」
「彼を殺したのは君かと訊いてるんだ」
 こういうときの関口は、普段の関口からは想像しにくいほどに鬼気迫るものがあった。

IC-681

「と、とんでもないです。そんなことはしてません」
 学生は脅えて上擦った調子で言った。
 その答えにはなんの反応も見せず、関口は次の質問を続ける。
「テレビや新聞で見て知っているかもしれないが、一ヶ月半ほど前に稲城市で、車の中で三十代の男が殺される事件があった。それはどうだ。君が殺したんじゃないのか?」
「い、いいえ、僕じゃありません」
「白を切ると罪が重くなるだけだぞ。車を盗んでおいて人殺しは知らないと言い張るつもりか」
「ほんとです。車を盗んだだけで、その車もトランシーバーを外したらすぐに返すつもりだったんです。それが、別の車強盗みたいな男にとられてしまって」
「ええっ!」
 驚嘆の声をあげたのは関口ではなく、萩野だった。泥棒が強盗に襲われるなどというのはあまりにマンガチック過ぎて、笑い話しにもならない。ところが関口はそれ以上問い詰めることなく悠然としてタバコを取り出し、うまそうに吸い始めた。
 萩野はじっとしていられなくて代わりに訊いた。
「そのへんのところをもっと詳しく話してくれないかな」
「駒沢通りからそこの空地のところまで乗り継いできて、トランシーバーを外す作業をしていたんです。外し終わったところでサングラスをかけて野球帽をかぶった男が近づいてきて、これは俺の知り合いの車だって言うんです。僕がびっくりして立ち尽くしていると、トランシーバーは僕にくれてやる、車は俺が返しておいてやるからこういうことは二度とするなって言うんです。さもなければ警察を呼ぶって言うものですから、僕はトランシーバーとその・・、ワンピースが入った紙袋を持って階段を駆け上がってきたんです。部屋でじっと耳を凝らしていたら、車が走り去っていく音が聞こえました」
「ふーん、ちょっと出来過ぎだなあ。自分でもおかしいと思わないか?」
「ええ、あとで考えたらおかしいことだらけです。知り合いの人の車ならなぜトランシーバーをくれたりするのか、それにどうして盗んできた車だってわかったのか。警察の人ならわかるかもしれませんが、それだったら無罪放免ってわけにはいきませんよね。いくら考えてもわからないんです」
 学生は大まじめな顔で首をひねって見せた。萩野にはまったく合点がいかなかったが、かといって作り話しをしている風でもない。関口はと見やると、椅子にすわってまるで人事のように空中に煙を吹き出してくつろいでいた。
 今度は美圭が口を開く。
「コンビニから出てきたとき走り去った白い車を、お父さんがどかこかで見覚えがあるようなことを言ったのは話したでしょう。その車がなにか関係あるかしら?」
 そうは訊かれても、萩野に答えを見出せるはずはなかった。
 関口がタバコを消しながら学生に訊く。
「その男は白の車に乗ってやってきたのかい?」
「いいえ、僕のところには歩いて近づいてきましたからそこまではわかりません」
「今度その男に会ったらわかるかい?」
「うーん、なにしろサングラスをかけて野球帽を被っていましたし、外は真っ暗で街灯以外明かりがありませんでしたから、およその程度にしか」
「ふむ、とにかく署まで同行してもらって内容をもっと詳しく聞かせてもらうよ」
「はい。あのう、僕は刑務所に入ることになるんでしょうか?」
「前科はあるのかい?」
「いいえ、初めてです」
「それなら事件のことを正直に話して、よく反省すれば執行猶予か罰金刑で済むさ」
 学生の顔にやっと赤味がもどった。「ところで君は大学はどこなんだい?」
「M大です」
 関口と萩野は思わず顔を見合わせ苦笑した。ほかでもない、二人の母校なのだ。
「専攻はなんだい?」
「経済学部です」
 今度は二人の顔には安堵の笑みがこぼれ、美圭もくすくす笑いこけた。