8 信じがたい話  その1

 テレビにぼおっーと見入っていると、突然、黒電話機が「ジリリリーン」と大きな音を鳴らした。時計はと見ると、もう明日になろうかという時間だ。
「たく、バアさんだな」
 萩野はいやいやながら受話器に手を伸ばした。数週間前から、便利屋をテレクラよろしく利用してくる比較的裕福そうな年寄りがいるのだ。
 独り暮らしのおばあさんで、都内では充分広過ぎるほどの庭がついた一軒家に住んでいる。子供はなく、長年連れ添った亭主には一年前に先立たれて寂しい生活を送っているらしく、萩野に昼食をいっしょに食べてくれるよう依頼があってからは、ときおり電話での話し相手をするのも仕事になっていた。規定の料金はきちんと払ってくれるし、事務所に居ながらにして稼ぎになるのだから上得意といえたが、朝早くとか夜遅くの電話には閉口していた。
「はい、猫の手サービスです」
『あら、お部屋でも会社の名前いうの?』
「あ、美圭か。電話帳にはこっちの番号も“猫の手サービス”で載せてあるからさ」
『そうだ、そんなことどうでもいいの。ね、いますぐこっちにきてよ。見つかったの』
「なにが? 慌てないでゆっくり話せよ」
『例のトランシーバーを盗んだ男よ。いま、お空に出てるのよ。こっちにきて確かめてよ』
「なに! ほんとうか?」
『ええ、まちがいないと思うわ。とにかくまだラグチューやってるから大至急こちらにきてよ』
「わかった、すぐいく。コールサインはチェックしておいてくれよ」
 バスタオル一枚の体を素早く汗を拭き、ソファの上に脱ぎ捨てておいたトレーナーとジーパンを身につけると玄関に走る。だが出るところになって、電話機の前にもどって受話器をとった。
「すみませんが捜査本部の関口さんを」
『ああ、俺だよ。署に電話をくれるなんてめずらしいね』
「美圭が、例の犯人がQSOをやってるのを捉えたらしんいです。美圭の家まできてくれませんか。僕もいきますから」
『わかった!』
 萩野はアルコールはとんと弱い方なので、一滴でも口にしたらまずハンドルは持たない主義だったが、いまばかりはそんなことは言っていられない。少し火照ってきた頭を冷やすのに、窓は開けたままで慎重にハンドルを握る。トランシーバーのスイッチを入れ、そのQSOをワッチしてみようとして周波数を聞かないでしまったのを悔やんだ。
 美圭の家の前までくると、赤色灯を消してスモールランプだけをつけたパトカーが止まっていた。
「どうぞ。関口さんがいまいらしたばかりです」
 母親の案内ももどかしく美圭の部屋に入ると、二人の目はオシロスコープに釘付けになっていた。スピーカーから流れる声に合わせるように波形が踊っていたが、その中で仲間外れになっているかのように、一本だけきれいなサインカーブを描いているものがあった。
「これが86.5ヘルツのトーン周波数なのか?」
「うん、計算するとそうなるの。この調子で三十分ぐらいラグってるのよ」
 QSOの内容は卒論がどうのこうのとか冬休みはどこへいくだとか、たわいのないものだった。
「確かに学生に違いないな。やっぱりコンビニのベンチにいた男の声に似てるのか?」
「そのときは声まで聞いたわけじゃないもの」
「そうか」
 それまで緊張していた三人の表情が一度に緩んだ。「全然コールを言わないけど、コールサインは?」
「これだよ。いいのを持ってきてくれた。こっちのには載ってないんだ」
 関口は、萩野が小脇に抱えているコールブックを見ながら言った。しかしながらコールサインは1エリアのものではなく、JF4になっていた。
「このコールじゃ、載っていたとしても4エリアの住所ですねえ」
 ところが予想に反して、そこには太田区鵜の木の住所が記載されてあった。
「しっかり住所変更の手続きはしてるんだな。鵜の木なら田園調布の先だな。二、三十分もあればいくなあ」
 関口は思案気に腕を組んだ。

アパートのアンテナ

「桜荘という名前から想像すると、木造モルタルのアパートってとこですかね。聞いてる感じじゃ、そう悪人には思えないけどなあ。でも現に運用してる以上は盗んだのは確かなんだろうし、逮捕状を持っていきますか?」
 すると関口が苦笑して言う。
「ふ、この程度の証拠じゃ裁判所は逮捕状を出さないと思うね。いずれにしても、いまはまだそこまで必要ないさ。ハギさんもほんとの悪人とは思えないかい?」
「うーん、たとえトランシーバーを盗んだとしても、とても人殺しまでしそうには思えませんけどねえ。美圭は?」
「わたしもそんな気がしないでもないけど、でも、盗んだあとで車に細工したのはまちがいないんだから、仲間のひとりであることはまちがいないでしょう。とにかく捕えましょうよ」
 美圭と萩野の目は催促するかのように関口に見入っていた。
「ふむ。ほんとならしばらく内偵捜査をするところだけど、刑事の長年の勘からいくと、どうしてもまるっきりの悪人には思えないんだなあ。大学は大家さんにでも訊けばすぐわかるだろうし、相手の局のコールもつかんでいることだからストレートに当たってみよう。パトカーはおいていくからハギさん、付き合ってくれるかい」
「わたしもいく!」
 美圭が家中に響き渡るような大きな声で叫んだ。
「だめだよ。犯人が逆上するようなことがあったらどうするんだ」
 美圭はがっくり肩を落とした。関口も当然戒めるだろうと思っていたが、意外にもあっさり言うのだった。
「いや、だいじょうぶだよ。もし、そんなことがあったら好きなように逃がしてやるさ。自分が犯人だって証明したようなものだからね。あとは指名手配して捕えるだけさ」
 かくして捕り物といえるのかどうかは別として、三人で学生のアパートに乗りこむこととなった。パトカーのキーは母親に預け、あとからとりにきてもらうことにした。母親だけはひとり心配そうに見送ったが、萩野にしても美圭にしても、怖さよりわくわくした気持ちが先にたった。
 カートランシーバーのダイヤルを学生たちがQSOしている周波数に合わせ、ワッチしながら車を目黒通りから自由通りを走らせる。
「うまくいけば、どちらの事件も速やかに解決しますね」
「うむ、だといいんだけどねえ」
 萩野の問いに、関口は生だら返事でごまかした。
 車は環状八号線に入ると、五分とせずに鵜の木地区に到着した。途中QSOは終わったが、電波が出ていなくともアパートはすぐに見つかった。
「あそこにGPが上がってるのがそうですね」
 萩野が指差した二階の窓の鉄格子には、鉄棒がジョイント用の金具で斜めに空中に突き出すように取り付けられてあり、グランドプレーンアンテナはその先にやはり斜めの状態で取り付けられていた。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか・・、いってみようか」
 関口がおもしろがって脅かすように言った。
「窓から逃げてしまうなんてことがあるんじゃないですかね。ここで見張ってましょうか」
「そのときはそれでいいって。素人にあぶない真似はさせられないさ。だいじょうぶ、素直でいい子だよ、きっと」
 顔は笑みを絶やさないでいたが、階段を上がるところにきて関口は懐から拳銃を取り出し点検するのを忘れなかった。アパートは木造モルタル製で一階、二階にそれぞれ四部屋づつがあり、一見して独身者用のつくりだった。