AREA6  亜香里の真実

            その2
 待ちに待った音声が飛び込んできたのは、10分ほどしてからだ。
<ガガガッ・・・>
 なにかが擦れるような音がしたかと思うとそのあとに音声が入ってくることはなく、無変調キャリアだけがSメーターを振らせた。
<JQ1NG×、7K2AG×。なにかあったのか?>
<・・・・・>
 普通のと電話とは違うのだから、送信状態になっている無線機に向かって呼びかけたところで応答がないのはわかりきっている。それでもいてもたってもいられず、二度、三度と呼びかけてみるが、やはり亜香里の声が流れてくることはなかった。
 Sメーターの振れ具合いから、亜香里のトランシーバーからの発信であることはまず疑いない。男の声といい説明のつきにくい雑音といい、胸騒ぎがしてならない。先日府中駅で見かけた、亜香里が突っ張りともいえる連中からカラまれていたことも頭をよぎる。正和は溜めらいながらも受話器を取ると、110番通報をした。
『正確な場所はわかりませんか?』
「そこまで聞かなかったものですから。ただ、東府中と府中のあいだであろうことはまちがいないです」
『京王線の北側か南側かもわかりませんか?』
「ええ、それも聞かないでしまいました」
『そうですか。それじゃ、近くの交番所の警官に駅の周辺を探させましょう』
 まだ事件とも事故ともつかぬ通報に、係官はもうひとつ気乗りしないようすで言った。
「それじゃお願いします」
 受話器をおこうとして千華が携帯電話を使って電話してきたとき、そのホテルを探しあてたことに気付いた。「待ってください。その交信をやってたときの電波が、原因はわらかないんですがいまも出っ放しになってるんです。断定はできないんですが、まず十中八九彼女のトランシーバーからの電波だと思います。電気通信監理局にセンサスとかいう電波の方位を測定する装置があると伺ってるんですが、それで追っていただけませんか」
『周波数はわかりますか?』
「ええと、438.96メガヘルツです」
『それでしたら発信位置はすぐ調べがつくと思います。なにかわかりましたら連絡しますので電話の前でお待ちください』
 それから為す術もないままじりじり待つこと三十分、やっと警察から電話があった。
『彼女を発見できました。多少怪我をしてるそうですが、意識はきちんとあるとのことです。東府中駅北側の自衛隊基地近くの公園の中に、動けずに横たわっていたそうです』
「ぼ、暴漢にでも襲われたんですか?」
『いえ、まだ詳しいことはわかりません。それで府中市内のI病院に運ばれたそうですので、そちらにいっていただけませんか』
 一度受話器をおくと、さっそくタクシーを呼ぶことにする。ふっと外に視線がいくと、亜香里の家から灯りが漏れていることに気付いた。
 外に出ると亜香里の家の玄関を荒々しく叩き、出てきた父親に手短に説明した。すると父親はさほど驚いた素振りも見せず、
「そうですか・・」
 と言ったきり、正和に車に乗るよう促した。
 正和の悪い予感がものの見事に的中してしまった。察するところ命に別状はないようだが、怪我とはどの程度ものなのか。最悪の場合・・、くだらない想像が正和の脳裏をいったりきたりした。
 I病院にはパトカーが一台止まっていた。病院の玄関を入っていくと、すぐ脇の救急処置室とみられる部屋に警官が立っている。父親が名前を告げると、警官は躊躇することなく中に入れた。
 ベッドには頭からすっぽり毛布を被り、目だけを出している亜香里がいた。その片目は青あざで派手なアイシャドーを塗っているかのようだ。二人に気付くとその目すらも毛布で覆い隠した。白い布地の衝立には泥だらけになって、ところどころナイフで切られた跡があるセーラー服が見るも無残な姿を晒していた。
「どうも、その節はいろいろお世話になりました。この度もとんだやっかいをかけまして」
 父親は開口一番、ベッドの脇に腰を下ろしていた頭の薄く禿げ上がった初老の男にそう挨拶した。
「いえ、今度はお嬢さんが被害者ですからねえ。ただ、頑固なのは相変わらずですなあ。相手が誰であるかを言おうとしないんですよ」
「言ったでしょう。まるで知らない男だって!」
 亜香里が毛布の下から声を張り上げる。刑事と思えるその男も一段と大きな声でやり返す。
「知らないわけはないだろう。井上とか川来田だろう。嘘をついたって調べればわかるんだからな」
「嘘なんかついてない。こんな目にあって嘘をついてなんの得があるのよ」
「フン、仕返しが怖いんだろう。黙ってたらまたやられることになるぞ。あいつらは入れるとこに入れて徹底的に締め上げないと目が冷めないぞ。それとも庇ってるつもりなのか?」
「・・・・」
 亜香里は無言だが、息遣いで口許の毛布が微かに膨らんだりへこんだりしている。ドアを『コンコン』と叩く音がすると、開いたドアから中年の看護婦が顔を出した。
「怪我人相手に大きな声を出さないでください。あまりうるさくするようでしたら出ていってもらいますからね」
「ふ、ふ・・」
 亜香里の身体と毛布がゆらゆら揺れた。刑事は渋いお茶を飲んだときのような顔をして向き直り、正和を見た。
「そちらは警察に通報いただいた方ですね。なにかご存じありませんか?」
 それまで呆気にとられていた正和は、その言葉で我に返った。
「正和さんは全然関係ないわ。変なこと訊かないで!」
 正和がしゃべり出す前に、亜香里が毛布からガバッと顔を出すといきりたって怒鳴った。父親もそれに相槌を打った。
「この方はわたしの調布の家の隣りに住んでいる方でして、亜香里の昔の仲間とはなんの関わりもない方です」
 確かに昔の仲間とやらではないが、通報したのは正和だ。なにかを話さなければ格好がつかない。
「亜香里さんが帰る途中、電車の中と僕の家とでアマチュア無線をやってたんですが、駅を降りてから少しすると突然・・」
 亜香里が毛布の端から鋭い目付きで睨む。「き、切れたんです。それからまた少し間があいて無変調キャリアだけが入ってきまして、電話の連絡もないしで、それでなにかあったのかと思って110番通報したわけです。ですからトランシーバーの向こうのことはなにもわかりませんで・・」
「そうですか。それじゃきょうのところはこれで失敬しますが、明日また事情聴取に伺います。お父さんからもよく言っておいてください。連中を野放しにしておくと、ろくなことがありませんのでね」
「はい、わかりました。重々言いきかせますので。いろいろありがとうございました」
 父親は恐縮しきったようすで深々と頭を下げた。
 刑事が出ていき足音が遠のいてから、亜香里がおもむろに切り出した。
「ごめんね、心配かけて。いまの話しびっくりしたでしょう」
「まあ、付き合っているうちに除々に変わった子だとは思ってたからさ。どうってことはないさ」
 とは言いながら、杖をも含めた三本足がおぼつかなくなってきた。

病院

「そこに座って」
 亜香里が勧めるままに刑事が座っていた椅子に腰を下ろす。会話が詰ったところで父親が亜香里に真顔で尋ねた。
「刑事さんの言うとおりなのか?」
 亜香里がこっくりうなづく。
「あとからまたやられる恐れはないのか?」
「だいじょうぶ、これでケリがついたから。なにも抵抗しなかったからかえって白けてたみたい」
「うむ、お母さんには連絡してないのか?」
「ツンツルテンが・・」
 父親が、こらっといった目で睨んだ。亜香里はいたずらっぽく舌を出して続ける。「へへ、刑事さんが電話してくれたみたいだけど留守番電話になったままみたい。きょうは遅くなるって言ってたの」
「それじゃこれから直接いってみよう。怪我の具合いはどの程度なんだ?」
「肋骨が一本折れて、腕の骨にヒビが入ってるって。あとは切り傷だけ。入院まで必要ないけど、先生が念のため二、三日ゆっくりしていけって」
 亜香里はなんでもないことのように言った。父親も笑みを浮かべながら言う。
「はは、重症だな。なにか持ってくるものがあるか?」
「お母さんに頼むからいいわ。ここにくるように伝えて」
「ああ、わかった。病院の方はお父さんが話しをつけておく。それじゃ母親がくるまでのあいだお願いします」
 正和に向かってそう言うと、父親は出口に足を向けた。
「お父さん、ありがとう」
 父親はドアのノブに手をかけながら後ろを振り返った。
「娘が大怪我をしたんだから当たり前のことだろう」
「そうじゃなくて・・」
「そのことか。お父さんにも責任があることだしな。それに亜香里のしがらみは亜香里自身で断ち切るしかないからな。お父さんには手伝ってやりようがない」
 父親は頬の筋肉を歪めた表情で、扉の向こうに後ろ姿を消した。
「よいしょっと、手を貸して」
「無理しなくていいからそのまま寝といた方がいいよ」
「だいじょうぶ。こっちに座って」
 毛布から出ると笑い話ではなく、重症とまではいわないまでも相当の怪我であることがわかる。左腕は三角巾に吊られ、顎や手足には絆創膏がべたべた張り付けてあった。病院からの借り物なのか、男物のパジャマに身を包んでいた。
「しかし、逆にいえばよくその程度で済んだなあ」
 セーラー服の切り刻まれた様を見れば、それが実感だった。
「うん、殺す気まではないのよ。適当に痛め付けてやればそれでいいってところね」
「穏やかじゃないなあ」
 いまは以前ほど驚くことはないが、それでもかわらしい顔に似つかわしくない言葉には違いなかった。
「さっきのはF署の少年課の刑事よ。事件を起こしたとき捕まったことがあるの」
「警察に知り合いがいるっていうのはそういうことか」
 亜香里はしばらく床を見詰めたあと目をつぶって大きく深呼吸をし、とつとつと話しを始めた。
「わたしね、高校三年でももう二十歳になるのよ。昔ね、暴走族に入ってていろいろ悪いことをしてたの。きょうの相手はそのときの仲間。万引き、カツアゲ、覚醒剤、売春、なんでもやったわ。鑑別所に入ってたこともあるの。学年よりも年をとってるのはそのせいなの。お父さんを殺そうとしたこともあるのよ。こうやってね、ナイフを持ってお父さんにぶつかっていったの」
 右手で刺す格好をする。「お父さんの左の脇腹に刺さったわ。張り倒されるのかと思ったら、そんなんじゃ人は殺せないぞってね。こうするんだって言いながら、わたしの両手を上から鷲掴みにして自分で刺そうとするの。びっくりしちゃって逆にわたしは引き抜こうとしたわ。でも、わたしの力じゃお父さんにはかなわなくてね。抜くに抜けないのよ。ヤメテーって叫んだんだけど、それでもお父さんは抜こうとしないの。もう、どうしようもなくなって今度はタ
スケテーって大声を張り上げたわ。わたしがよ」
 亜香里の膝の上には、大粒の涙が雨のように滴り落ちた。
「わかった。もういいよ」
 正和は亜香里にぴったり寄り添うと肩を抱いた。亜香里の身体中がわなわな震えている。
「ふふ、馬鹿な話しよねえ。これはそのころのツケが廻ってきたのね」
 左腕をクイッと突き出して自嘲する。
「若いうちからいろんな経験をしてるんだなあ」
「そのうち話そうと思って言うに言えなかった。でもスカッとしたわ。呆れてものもいえないでしょう」
 ひと呼吸間を空けてから言う。
「ああ、話しにならないな」
 正和の顔には笑みがこぼれていた。下をうつむいたままでいる亜香里の震えが、一瞬ピタッと止まった。
 重い口調で確かめるように再度尋ねる。
「わたしのこと、もう嫌いになったでしょうね?」
 正和は覚えたばかりのモールス符号を口電鍵で打った。
「トト トツートト ツーツーツー トトトツー ト ツートツーツー ツーツーツー トトツー」(I LOVE YOU)
「ありがとう。うえーん、う、う・・」
 亜香里はもたれかかるようにして正和の膝の上に頭をおくと、大声で泣きじゃくった。
 髪を撫でながら言う。
「四月の2アマ、いっしょに受験しよう」
「はい、アイタタ・・」
「痛むのか?」
「グス、グス、腕と肋骨が。ふふ、天罰よね」
 鼻をすすりすすり泣き笑いで言った。
 不意に背後に人の気配を感じる。振り向くと、さっきドアから顔を出した看護婦が注射器を持って立っていた。
「そんな格好でいたら痛むのは当たり前でしょう。そういうことは治ってからにするのね。さ、横になってお尻を出しなさい」
 看護婦は無表情で注射器を上にかかげると、注射液をピッと出した。

完