AREA6  亜香里の真実

            その1
<JQ1NG×、ジャパン・クィーン・ワン・ナンシー・ゴルフ・×××。こちら7K2AG×、セブン・キロ・トゥー・アルファ・ゴルフ・×××。入感ありましたら応答してください>
 スピーカーからは送信から受信への切り換え音が、『プシュ』と響くだけでなんの応答もない。電波が弱過ぎてスケルチでつぶされてしまっているのではと思い、つまみを左に回してスケルチを解除してみるが、『ザッー・・』というFM特有の雑音が流れてくるだけだ。時間的にはそろそろ亜香里の声が聞こえていいはずなのだが、あらかじめ決めておいた438.96の周波数にまだ反応はなかった。
 それから二度呼んだとき、やっと亜香里の声がフルスケールで飛び込んできた。
<7K2AG×、セブン・キロ・トゥー・アルファ・ゴルフ・×××。こちらJQ1NG×。どうぞ>
 キャリアが強いわりには変調が浅く、電車の騒音も重なって聞き取りにくい。
<はいー。JQ1NG×、7K2AG×。遅かったなあ。声が小さくて聞きにくいからもう少し大きな声でしゃべってくれないかな。いまどのへん?>
<八幡山の駅を出たところよ。陸橋で高くなってるからよく入るでしょう。それでね。いまはまだ乗客が混んでるから、千歳烏山が過ぎたらまた呼ぶからそのまま待機してて・・>
<イヤホンを使ってないのか?>
<使ってるわよ>
<ならいいじゃないか。亜香里が静かにしゃべってる分にはほかの乗客の迷惑になることはないさ>
<ザ、ザ・・>
 亜香里は音声を載せていない無変調キャリアだけを送ってきた。
<じゃあ、しばらくこっちから一方的にしゃべってるよ。きょうは朝から7メガのCWを取ってだんだけどさあ。ところどころだけど、取れるようになったよ。ゆっくり打ってる人のはどうにか取れるんだけど早いのはだめだなあ。よくあんなに早く打てるもんだよ。あれ、よくよく聞いてるとだいたい決まり文句を打ってるみたいだな。英文でどうやっていろんな情報のやり取りをしてるのかと思ってたんだけど、たいしたことはやってないようだなあ。もういいかな?>
<あと少しよ>
 京王線の駅間の距離は短いところは数百メートルで、長くても一キロ前後だ。駅から駅まではほんの数分でいく。電車は芦花公園に着いて、そして出ていいころだ。千歳烏山は急行が停車する駅だけに、各駅停車に乗って千歳烏山までいく乗客はそれほどいないはずだ。
<もうだいぶ空いたんじゃないかい?>
<ザ、ザ・・>
 また無変調キャリアだけがきた。これをやられるとなにも言い返しようがない。諦めてまた独り言をはじめる。
<あとさ。数字と同じように五つの短長点で構成されてる符号があるんだよ。あれは和文なんだろうなあ。これがまたかなり長いんだなあ。どんな話しをしてるのか、わかったらおもしろいんだろうけどさ。まるでチンプンカンプンだものなあ。亜香里は和文も取れるんだっけ?>
<ええ、最近だけど少しぐらいなら取れるようになったわ。いま千歳烏山を出たところよ。やっと乗客が疎らになったわ。7K2AG×、JQ1NG×>
<JQ1NG×、7K2AG×。今度はよく聞こえるよ。座ってやってるの?>
<いいえ、南側のドアのところに立ってやってるわよ。和文モールスの話しだけどね。わかる人が全体のハム人口に比べて極端に少ないでしょう。だから聞いてる人がほとんどいないだろうと思うと、けっこうプライベートな話しもしてるみたいなのね。SSBじゃ誰が聞いてるかわからないから、そうそうくだけた話しなんかできないものね>
<ふーん、そうだなあ。これも誰か耳を澄まして聞いてる局がいるかな?>
<いるわよ。わたしなんかよく無変調キャリアとかビートを被せられたりするんだから。美人はつらいわ>
<エエかげんにせい!>
<うふふ、声だけしか聞こえないから誰でもかわいく見えるらしいわ。実体も知らないでね。でもYLはハム界では得することが多いわね。パイルアップのときには一発でとってもらえるものね>
<それはあるなあ。さっきもどこかの博覧会の会場から特別記念局が出てたんだけど、みんながわあっと呼ぶんだよ。その中にYL局が何局か入ってたらYLさんのみ応答くださいだってさ。あれは男に対する逆差別だな>
<ふふ、男がみっともないこと言わないの。電信の利点はいっぱいあるわよ。まずやってる人が少ないから、SSBのようなパイルアップにはならないということね。めずらしい局がDXで出てるとCWでもけっこうパイルになるけど、それでもSSBよりはずっとコンタクトできる確率は高いわ。搬送波を断続するだけの符号による通信だから、確実性があって電波の飛びもいいということ。つまり、10Wのような小さな出力でも世界のどことでも交信できるということね。なにしろSメーターが振れてなくても、了解度5でQSOで
きるからね。それと英会話ができなくても、CW特有の略符号で外国局と簡単にQSOできるということね。英文での交信はほとんどラバースタンプQSOっていってね。ワンパターンでやってるの。むずかしく考える人が多いんだけど、アルファベットの二十六文字と十個の数字さえとれるようになれば誰でもやれるわ。だから頑張って3アマ取ってね>
<ああ、申請書がきたらすぐにでも書いて送るつもりだよ。また晴海までいくようだな>
<今度も一発合格を目差してね。それにね、これは個々には直接関係ないんだけど、最近のプロの世界はファクシミリとかコンピューター通信が全盛になってきてるでしょう。モールス通信をやるのはハムだけという時代がそこまできてるのね。だから大げさにいえば、ハムにはモールス通信を後世に引き継ぐ責任があると思うの。どうお?>
<ほおお、立派な御意見だこと>
<もう、真剣なのよ。地球上最初の電気的な通信手段が消えてなくなるなんて淋しいじゃない>
<いまのおれにはそんなことまで考えてる余裕はないな。2アマの試験には和文も入るんだっけ?>
<いいえ、和文は1アマだけよ。いまから覚えておいても損はないでしょう。それに普段のQSOでやってみたいの。そうすれば試験のときに慌てて練習する必要もないでしょう>
<そりゃいつもやってれば、なんの問題もないんだろうしな。和文のQSOは3アマとか2アマの人でもやっていいの?>
<いいわよ。局免でCWを取ってさえいれば誰でもやれるわよ>
<ふん、そうか。だったら3アマを取ったらおれも考えてみるかな。いまどのへんまでいった? JQ1NG×、7K2AG×>
<7K2AG×、JQ1NG×。いまね、柴崎を出て国領に向かってるところ。これから離れていくから除々に弱くなると思うわよ>
<うん、いまのところはまだフルスケール。ちょっと待ってて・・>
 正和はマイクをおくと、コントローラーの指示を北西方向に変えた。頭上でモーターが『ウィーン』と唸る。

ハム家の風景

<JQ1NG×、7K2AG×。アンテナをそっちに向けたよ。全然違う方向でも強く入るもんだな?>
<これだけ近いんだからあまり影響ないわよ。1アマは和文にある程度自信がついたら、電信の実技試験を受けて先にそれだけでも取っておこうかと思ってるの>
<はあ? なんだそりゃ・・>
<1アマと2アマは、電信の実技は科目合格が認められてるのよ。だから実技に合格してれば筆記試験だけで済むってわけ>
<へえ、3アマにはないの?>
<残念ながら3アマには認められてないわ。だから、来年四月の2アマも実技だけは絶対落とせないと思ってるの。あ、そうだ。3アマの試験はいまから申し込むと二月ぐらいでしょう。だったらそのあと時間ができるから、2アマをいっしょに受けましょう>
<なに言ってんだよ。3アマのモールスで四苦八苦してるのに、2アマなんて無理さ>
<あら、モールス符号なんて一度覚えてしまえばどうってことないのよ。だって普通のQSOの早さは2アマの試験の速度よりも早いくらいなのよ。3アマの一分間二十五字なんて、慣れてきちゃうとゆっくり過ぎていらいらしてくるぐらいよ。さっきだって7メガをワッチしてて少しはとれるようになったって言ったじゃない。このまま続けてやってれば、2アマの一分間四十五字も目じゃなくなるわ>
<そんなもんかなあ。筆記試験だって格段にむずかしくなるわけだろう。無理だと思うよ>
<格段ってわけじゃないわよ。勉強すれば理解できるようになるわ。わたしにだってわかるんだから。それに電信実技の科目合格だけを狙って受けてもいいじゃない。ね、そうしよう>
<うーん・・。ま、考えとくよ>
 3アマの申し込みもしていないうちから2アマことを持ち出されても、頭がついていかないのだ。
<もう、だらしないんだから。わたしは和文の自信がついたら1アマも受けてみるつもりなのよ>
<へえい、ご苦労さまです。JQ1NG×、7K2AG×。現在どのへんを走行中でしょうか?>
<7K2AG×、JQ1NG×。『西調布、西調布です』。聞こえた?>
 マイク越しに車内アナウンスが流れてきた。
<ああ。Sメーターがたまに9を切るようになってきたなあ。聞こえなくなったらその時点で終わりにしよう>
<ええ、こっちにはまだフルスケールできてるわよ。5Wと10Wの出力の差が出てるわね。だめになったら、そこの近くにある60のレピーターにいきましょう。あそこのアンテナはだいぶ高いらしいから、正和さんのところより飛びがいいと思うわ>
<そう。でもこっちは八木アンテナのスタックだからなあ。向こうも八木を使ってるのかな?>
<知らないけどレピーターだから垂直系だと思うわ。試しにやってみて比べてみましょう>
<それは家から出すときにでもやってみよう。あまりレピーターは使う気になれないんだ。ほかのレピーターだけどこの前、あなたは当クラブの会員になってますか、なんて聞かれちゃってさ。気分が悪いのなんのって>
<そんなの向こうがルール違反なんだから気にすることないわ。非常識なのは・・にでも・・ものよ>
 急に感度が落ちて、亜香里の声は途切れがちになった。
<だめだ。たまに切れてしまうよ。家に着いたらまた呼んでくれよ>
<ちょっ・・、待っ・。7K2AG×、JQ1NG×。少しはよくなったんじゃない、どうぞ>
<ああ、ほんとだ。窓からトランシーバーを出してやってるの?>
<まさか、右側に移ったのよ。線路が北側に曲がってるから、つつじヶ丘は右側になってしまってるのよ。距離も遠くなってきたせいでしょうけど。もし途中で聞こえなくなってもそのまま待機しててね。電車から外に出ればよくなると思うわ。きょうは途中で買い物をしていくから東府中で降りるの>
<こんな時間に店があいてるのか?>
<たまに買うお店でね。昼のうちに断ってあるからだいじょうぶなの。お母さんの知り合いが明日結婚式とかでお花をね。いま飛田給を出たとこよ。ハンディ機でもけっこうやれるものね。相手のアンテナと出力によってもかなり違うんでしょうけど。少しSが下がったわねえ。こっちのはしっかり聞こえてる?>
<Sは4ぐらいまで下がるけど、メリットは5。東府中まで完全にやれるかもしれないな>
<そうね。わたしの乗ってる乗客は十人も・・いわ・・。新宿・・うだっ・・・平気でや・・・だけどね。人が横に・・・恥ずかし・・・>
<ああ、だめだよ。駅からまた呼んで。JQ1NG×、7K2AG×>
<はあい、あと・・。7K2・・・、・・Q1・・・>
 スケルチつまみを左に回し切っても、スピーカーは雑音だけになってしまった。線路の方向を考えれば正和の家は武蔵野台あたりからは電車の真後ろになっており、しかたのないことだった。
 亜香里の声が聞こえたのは、それから五分ほどしてからだった。
<7K2AG×、JQ1NG×。聞こえますか、どうぞ>
<はい。JQ1NG×、7K2AG×。Sが三つぐらいだけどメリットは5。いま駅の外?>
<ええ、お月さんがきれいよ。きょうは満月・・。『アカリッ!』>
 突然、亜香里の声とは違う男の怒鳴り声が飛び込みキャリアが消えた。
<どうした?>
<ちょっと待ってて。QRX>
 めったに聞くことのないQ符号に、正和は手元のJARL手帳をひも解いて調べる。説明には“ちょっと待ってください”とある。要するに同じことを重ねて言ったようだ。
 数分待って亜香里を呼んでみるが応答はない。最後に聞こえてきた亜香里を呼ぶ男の声がやけに気になる。が、どうしようもない。ひたすら待つしかなかった。