第一節 配属先の憂い  その1

 三月一日、N病院付属看護学校を卒業した桜田麻奈美、土井由紀子の二人は仮採用がきまっている仙台第一病院に、病院側の「人手が足りないので早めにきてほしい」との要望によって、卒業して一週間後には勤務することになっていた。“仮採用”の意味は、四月下旬の看護婦試験発表を待って、万一落ちるようなことがあればその時点で採用取り消しになるという内容であった。
 出勤初日、本来の出勤時間よりは遅めの十時に出ていくと入口の札に“総婦長室”と書かれた部屋に案内され、その主である総婦長と事務長の立ち会いのもと、形ばかりの辞令交付式が行われた。
 由紀子には整形外科の入院病棟勤務が命じられ、麻奈美の番になった。
「桜田麻奈美、本日付けをもって神経科・シンリョウナイカ外来勤務を命じます。はい、がんばってね」
「え、シンリョウナイカ?」
 聞き慣れない診療科名だったので、思わず辞令書を奪い取るようにして覗きこんでしまった。
「心に療養の療で心療内科よ。神経科も心療内科も似たようなものだけど、心療内科は主にストレスが原因で心をわずらってる患者さんたちを診るところよ」
「ああ、はい・・・」
「そういえばN病院には精神科とか神経科はなかったわね。ほかの病院で実習はやってるんでしょう?」
「ええ、でもちょっとだけでしたから・・・」
「だいじょうぶ、すぐに慣れるわ。ここの外来は診療室がいっしょになってて、診察日と担当する先生が違ってるの。もちろん看護婦は両方を兼任よ。それと本来なら入院病棟を担当してもらうんだけど、配置替えに手間取りそうなので四月いっぱいぐらいは外来をやってもらうことになります。これが白衣とナースハットです。これからロッカールームにいきますからそこで着替えてください」
 白衣とは言ったがテーブルに置かれたのは白いものだけでなく、ピンク色したものもあった。
「すみません、どっちが私のですか?」
 麻奈美が訊いた。
「ピンクのが桜田さん、白いのが土井さんのよ。今年度からイメージを一新しようということでピンクに変更になったんだけど、予算の都合上今年は内科と心療内科、それに歯科だけであとは順次変えていくことになってるの。それじゃいきましょうか」
 二人は早足で歩く総婦長のあとを足がもつれそうになりながら追いかけて歩いた。「さ、ここよ。あそこの右端がそうよ。二人の名前を入れてあるからまちがえないようにね。着替えが終わったら病院内を案内するから、手早くやってちょうだいね」
 ロッカールームに入ると由紀子がさっそくビニール袋から取りだし、自分のと麻奈美とのを胸に交互にあててみる。
「イメージを一新するというだけあって白い方のはやぼったいわね。でも私は整形外科だし、制服までぜいたくは言えないか」
「そうよ、精神病院での実習を思い出してしまうわ。入院したての患者に医者が殴られて救急車を呼んでたのよ。私もいつかそんな風になるんじゃないかと思ったら、まるで仕事に身が入らなくてね。その一方で看護士がやたら威張ってて患者が変に小さくなってるのね。刑務所じゃあるまいし・・・」
「私のいった病院では作業療法の患者さんに付き合って朝から夕方までボールペンの組立ばっかりよ。どうして看護婦がこんなことをしなくちゃならないのって、1ヵ月間自問自答の毎日だったわ」
「あーあ、気が重くなってきたあ」
「いっそのこと試験、落ちるといいわね」
「ユキコぉー・・・・」
「ふふ、ごめん」
 最初は一階フロアーにある歯科の診察室につれていかれた。もちろん患者がいるので簡単な説明だけで次の整形外科に移り、ここでは由紀子が入院病棟に配属されることもあって忙しく立ち回る数人の看護婦に、合間をぬって手際よく紹介された。
 一階を回り終えると次は二階に移り、産婦人科、そして神経科兼心療内科の外来に案内された。待合所になっている診察室前の長椅子群に目をやると、空席はチラホラ数えるほどで、まだほとんどの席に患者が埋まっていた。
「ふうー、もうお昼近くだというのにねえ。看護婦はひとりだけだから、これじゃ話してる暇もないわね。どうせ午後からくるわけだから、ここはあとにしましょう」
 とのことで、結局素通りすることになった。「この一年、心療内科にくる患者さんがずいぶん増えたわねえ。桜田さんにはがんばってもらわないとね」
 総婦長の励ましに笑顔でうなづきはしたものの、そのあと由紀子と合った視線のときには目を剥(む)いて見せた。
 ひととおり回り終えたあと昼食をすませ、午後からはそれぞれの科についてレクチャーを受けたが、それも三時ごろには終わり二人は別れてそれぞれの勤務場所にいくことになった。
 由紀子が先に整形外科病棟に案内され麻奈美ひとりだけになると、先ほどとは違って全身がロボットにでもなってしまったかのように、ぎこちない動きをしていた。

長椅子

 それに気づいた総婦長が笑いながら言う。
「どうしたの。実習の延長だと思って気楽にやればいいのよ。それにこの時間なら診察は終わってると思うわ」
「は、はい」
 内心そうあってくれと願いつつ診察室の前までやってくると、総婦長の説明どおり長椅子にはさっきの光景が嘘であるかのように人っ子ひとりいなかった。中に入っていくと年配の看護婦、髭を生やしたいかにも偉そうにした医師、それに若い医師の三人がお茶をすすっていた。
「やっと一段落ついたみたいですね」
「ええ、きょうも昼食は菓子パンと牛乳よ。今からゆっくり食べにいかないと」
「ふふ、ごくろうさま。きょうからこちらでいっしょに働いてもらうことになった桜田麻奈美さんです」
「初めまして、看護婦の氏家です。それに心療内科部長の内山先生と森岡先生です。ほかに水曜日だけT大学付属病院から神経科の先生がきます。ここのスタッフはそれで全員です。よろしくね」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
「あーあ、これで明日からは楽できそうだわ」
 肩をたたきながら言う氏家に、ほかの者から笑いが洩れた。麻奈美も笑みを浮かべはしたが目元のあたりが引きつっていった。
「それじゃ、あとはお願いします。がんばってよ」
 総婦長に礼をして見送ったあとは、直立不動で立っていた。
「さ、ここにすわってお茶でも飲んでちょうだい。きょうは残務整理をして明日の用意をするぐらいだから気楽にしてくれていいわ」
「失礼します」
 麻奈美は言われたとおり、氏家と森岡医師のあいだに腰を下ろした。
「ピンクの看護服がよく似合うわね。私みたいなおばあちゃんじゃ、どこか気恥ずかしくていけないわ」
「いいえ、氏家さんだってそのユニフォームになったおかげで十(とう)は若く見えますよ」
 森岡医師が言った。
「ありがと」
「ハハ、ところで看護婦試験の発表はいつなんだい?」
 今度は麻奈美に顔が向いた。
「四月の二十日です」
「ふーん、まだ1ヵ月以上あるなあ。あの子、今度はだいじょうぶかなあ?」
 麻奈美がきょとんとして氏家の顔色を伺っていると、
「なんのことですか?」
「いやね、去年心療内科病棟に配属になって落ちてしまった子がいるでしょう。ほら、今は皮膚科で看護補助をやってる子ですよ」
「ああ・・・」
 と言った横で、麻奈美は肩をすぼめて小さくなった。それに気がついた氏家が、「先生、縁起でもないことを言わないでください。あなたならまちがいなく受かるわよ。総婦長から聞いたところでは、N病院の看護学校では優秀な成績だったっていうじゃない。その落ちた子はここの学校では最低クラスだったのよ。気にしなくていいわ」
 肩をたたきながら言ってくれた。
 仙台第一病院にも看護学校はあったが残る希望者が採用予定人員よりも少なく、それでN病院看護学校からも採用となった。皮肉にもN病院では逆の状態にあった。
「ここの人は落ちた場合でもクビにはならないんですか?」
「ええ、一年だけ猶予期間が与えられることになってるわ。よそからきた人にはその特典はないみたいね」
 それまで黙って聞き入っていた内山がくわえていたパイプを軽く灰皿をたたき、灰を落としながら
「さてと、そろそろ回診にいく時間だな」
 と言って立ち上がった。つられるようにほかの三人も腰を上げた。