第一節 配属先の憂い  その2

 出勤二日目、定刻の八時半より二十分ほど早く入った。診察室前の待合所は診察時間が九時からだというのに、既に満杯に近い状態になっていた。
 昨日氏家から教わったとおり、受付台のプラスチックケースに入れられた診察券を入っていた状態とは逆に、下のものが上になるように机に並べかえた。そして湯を沸かし、机や椅子に雑巾をかけているところに、
「ごくろうさま。早いのね」
 満足そうな笑顔を見せる氏家だった。
 森岡は診察時間の十分前、内山に至っては開始直前になって現れた。
「じゃ、中に入れましょう。その方は初診だから、まず身上調書を書いてもらってね。大きな声で言うのよ」
 麻奈美は一度深呼吸をした後、患者の名前を呼ぶ。
「村上隆行さん、こちらにどうぞ」
 いちばん後ろの長椅子の端に、ひとりだけ向きを違えて背を丸めてすわっていた男がこちらに向かって歩いてきた。
「村上ですが」
「これに必要事項を記入してもってきてください。診察はそれからになります」
 男はうなづくでもなく、そのまま受付台に用紙をおいて書き始めた。「あの、時間がかかるかと思いますのでお席にもどってお願いします」
 麻奈美を振り向きはしたものの表情ひとつ変えることなく、またボールペンを走らせる。氏家を見ると一度うなづいてから、目を机の上の診察券を見遣って顔をクイッと上にやった。
「仁和誠二さん、中にお入りください」
 看護婦試験に合格するまでは注射を打ったりするわけにはいかないので、麻奈美はもっぱら受付事務を担当し、氏家だけで手がまわらないときだけ医師の手伝いをするという仕事の配分になっていた。
「中に入っていいですか?」
 村上が無造作に身上調書を突き出してきながら訊いた。
「はい・・、あ、まだ書いてない部分が」
 記入してあるのは住所・氏名・年齢だけで、職業やいちばん肝心の病状についてはなにも記されていなかった。
「僕は内山先生の知り合いの方の紹介できてるんです。内山先生に直接取り次いでください」
 村上は握り拳をつくり、小さな窓から身を乗り出して迫ってきた。
 実習を受けた病院で、患者が医師の前の診察椅子にすわるなり、ポケットに入れてあった缶ジュースの空缶で医師の額を殴りつけて鮮血がほとばしった状景が、つい脳裏をよぎる。麻奈美は間髪を入れず立ち上がり後ろに下がった。その拍子に椅子が倒れてしまい、騒々しい音が診察室に響きわたった。
「どうした?」
 内山がカーテンの隙間から顔を出して訊いた。
「村上さんという方が、紹介できたと言ってるんですが」
「ああ、そうか。君が高平のところの・・。わかった、入りたまえ」
 村上はすぐ入口から入ってくると、真奈美の目の前まできて、
「すみませんでした」
 と言って深々と頭を下げた。
 それから内山のいるカーテンで仕切られた部屋に入ってからは、二十分、三十分とたっても出てこない。ときおりカーテン越しに聞こえてくる村上の声は憔悴しきったようすで、すすり泣きさえ混じっていた。
 それからさらに十数分、村上がいくぶん目を赤くして出てきたときには、時計の針は十時近くを差していた。
「小松明彦さん、どうぞ」
 また初診の患者だった。身上調書を渡すと受付窓の上に取り付けてある診療科名が入った札をじっと見つめている。
「あの・・・、ここは神経科なんですよね?」
「はい、両方ともやってるんですが神経科の診察日は水曜日だけでして、きょうは心療内科の先生しかいらっしゃいませんのでそちらの先生が診ます」

受付

 昨日のレクチャーで、実質的にはほとんど心療内科なのだが、医療法の規定により心療内科は外の看板や電話帳の宣伝に掲載することはできないので、やむをえず神経科の看板を掲げ、患者を呼び込んでいるのだという説明があった。よって、たまに神経科を指定してくる患者がいるので、そこは言葉巧みに心療内科に誘導してほしいとのことだった。
「心療内科って初めて聞くんでよくわからないんですが、私の病気はちょっとここがおかしくなってまして神経科じゃないと無理だと思います」
「ふ・・」
 患者がまじめな顔で自分の頭をつんつんしたものだから、麻奈美は思わず吹き出してしまった。「すみません。とにかく心療内科の先生に診てもらって、それで心療内科の診療内容から外れるようでしたら神経科に回ってもらうなりしますので、受診だけしてみてくれませんか」
「はあ、そうですか・・・・」
 患者はもうひとつ納得していないようすながらも、調書をもって自分の席へもどっていった。
「いまのでいいのよ」
 とは氏家のお誉めの言葉。「ただ、たまには分裂病の患者さんもくるんだけど、心療内科では扱わないし神経科でも週に一回では対応しきれないから、ほかの病院を紹介してるわ」
「それじゃ、ここの入院病棟には分裂病の患者さんはいないんですね?」
「ええ、そうよ」
 麻奈美は胸に手を当て、静かに吐息を漏らした。
 小松明彦は森岡医師の診察室に入っていった。村上ひとりでかなり時間を取られていたので氏家はやたら時計を気にしていたが、幸いにも二十分ほどで出てきた。
「いやあ、ありがとうございました。心療内科でいいみたいです。ベッドが空きしだい入院させてもらうことになりましたのでよろしくお願いします」
「え、入院ですか・・・?」
 麻奈美は自分の仕事も忘れて、小松をしげしげと見遣った。
「いいの、マニュアルにそって入院手続きを説明してやって。必要書類を渡すのも忘れないでね」
 と氏家が言って、そのマニュアルを横から手渡してよこす。ふと我に返って、入院の際に必要な衣類や着替え、費用の支払方法などを順をおって説明していった。 全部を終えて小松がいなくなったあと、森岡が出てきて、
「彼は必ず独り部屋にしてください」
 と念をおした。麻奈美が返事をする間もなく氏家がカルテを開き、
「わかりました」
 と言って、その旨を記載した。そして笑みを浮かべながら言うことには、「心療内科の患者さんていうのは身体が悪い人もいるけど、基本的には身体の病気じゃなくて心の病なんだから見た目だけで判断しちゃだめよ」
 赤面する麻奈美だった。