第三節 脱走患者  その1

 病棟勤務になって実際に働いてみると病棟は若手、外来には年配の看護婦が配属される意味がわかった。勤務時間が一日三交代の上に、夜勤が週に二回ではかなりの体力が要求される。人員が他科の病棟に比べて若干少なめなので、同僚がなにかの事情で休むようなことがあれば二交代になる事態もあった。
 そうはいっても由紀子の話から整形外科と比較をすると、体力的には心療内科の方が楽のようだ。
「まともに動けない人が多いから、こっちが手助けをしてやらないとねえ。その分よけいなエネルギーを遣うわ」
 とは由紀子の弁だ。麻奈美も負けずに言い返す。
「確かに身体は何人かの患者さんを除いてはぴんぴんしてるから力仕事はないけど、神経は遣うのよ」
「そういう診療科なんだからしょうがないわよ。ところでさ、骨折で入院した患者に市内の不動産会社の御曹司がいるのね。親は見舞いにくるのにベンツでくるし、本人もBMWをもってるんだって。それがよ、昨日、退院したらリハビリ代わりにテニスをやるからいっしょに付き合ってくれませんか、だって」
「へえ、うまくすれば玉の輿ね。それでOKの返事をしたの?」
「考えときますって、言っといたわ」
「どうして・・、嫌いなの?」
「ばかね、尻軽女みたいに思われたら遊ばれてポイでしょう。少しじらしてやるのよ。もう二回くらい言ってきたら、テニスだけでよかったら、なんて感じでしおらしく言うのよ」
「ふーん、いいわねえ。浮いた話があって・・・」
「心療内科の患者にいい男はいないの?」
「いないこともないけど、しょせん頭のおかしい患者だしねえ」
「そうよね。なにを考えてんだかわかんないし、あとあと変なことをされてもかなわないものね。変なのが多いんでしょうね」
「そんなこともないんだけど・・・・」
 この二ヵ月、仕事の段取りと入院患者個々の病気の特性を覚えるのにせいいっぱいで、冗談にも男がどうのこうのと考える余裕などまったくなかった。
 朝自宅を出てバスに乗ると途中で必ず小便が我慢できなくなってしまい、通学そのものができなくなってしまったという大学生。病名は過食症だが食べる以上に吐いてしまって歯が胃酸でボロボロになり、げんなり痩せているOL。それどころか食べ物を一切受けつけないため、鼻から管を通して流動食で生きながらえている女子校生・・・・などなど。
 外来にいた一ヵ月半のあいだにはそれほど症状の重い患者がこなかったせいもあるのだが、精神的なものが原因でそこまでなる症状には疑問に思ったので、森岡医師が回診でナースセンターに立ち寄ったとき、どんな根拠から心因性と断定できるのかを訊いてみた。
「身体に悪いところがなければ結果論として、そう診断せざるえないんだね。我々としてやれることは運動療法を勧め自律訓練と内観法を教えて、患者によってだけど絶食療法を施してストレスから解放させてやることだね。あとは薬を処方して症状を緩和させるぐらいかな」
 自律訓練とは手が重い、足が重いとかを心に思って精神を集中させる方法。これは外来の診察でもやっていたので麻奈美も何度かやってみたことがあるが、思ったようには全然できなかった。内観法とは、これまで育ってきた過程の中で父母や兄弟から、なにをしてもらったか、どんな迷惑をかけてきたか、などを思い起こす作業をひたすらくり返す療法。絶食療法とは十五日間個室の中で人と接するのは医師と看護婦しか許されず、風呂はもちろんも頭を洗うことも髭を剃ることも禁止された状況の中で、水分以外の何物も口にしないという精神療法である。
 きょう、その絶食療法を体験した患者が退院していった。地元大学の体育学の講師で授業中や通勤途中に頭から背筋にかけて、力が抜けてしまう感覚に襲われ倒れそうになってしまうというのが彼の症状だった。なにしろ体育の先生だけに、授業中にふらふらでは洒落にもならず、やってきたときはかなり落ちこんでいたという。当初は内科で貧血との診断だったが検査の結果は異常が見当たらず、ほかにも神経内科、耳鼻科、循環器科を回って最後は心療内科に転科されてのことだった。
 絶食療法は最終日の翌日、起床時間の朝六時をもって終了となるが、そのときの検温がちょうど麻奈美の当番になっていた。
「ああ、終わったあ。これで生まれ変わったぞおー」
 廊下に出るなり大声で叫んだ。頬はこけていたが、もともと身体つきはがっしりしているところにぼさぼさ頭で髭が伸び放題ときては、少しばかり栄養の足りない熊といった感じだった。だが、その表情といったらとてもすがすがしく、澄み切った目をしていたのがなんとも印象的だった。
 それから退院までの一週間、その大学講師は転んで頭をぶつけてもいいようにとアイスホッケー用のヘルメットを被って、朝から晩まで院内や外の駐車場を走り回った。そして、充分過ぎるほどの自信をみなぎらせながら出ていった。
 その日の午後、回診にやってきた森岡医師に患者からの伝言などを報告しているとき小松明彦も顔を見せた。

血圧計

「小松さん、今は先生と話があるからあとにしてくれませんか」
「いや、先生におりいって頼みたいことがあるんです」
 森岡は一瞬怪訝な表情を浮かべはしたが、すぐペンをおいて小松を見た。
「なんでしょう?」
「私にも絶食療法をやらしてもらえないでしょうか」
「ううん、前にも言ったとおり、小松さんの身体つきでは危険なんですよ」
 絶食療法は平均して十キロ前後は痩せるので、もともと細身の小松には身体そのものへの弊害が心配されるのだ。
「でも、このままではどうにもなりませんのでどうかお願いします」
「うーむ、そうはいってもねえ・・・」
 森岡は腕を組んで考えこんでしまった。
 小松は入院以来、症状の改善はほとんどない。相変わらずテレビの音はうるさく、隣室の二人部屋の患者からは何度となくクレームがついていたが、事情を説明してなんとかおさめてもらっていた。そのテレビもスイッチを入れたまま談話室のテレビを見ていたりで落ちつきがなく、人と話すときも自分のペースで人一倍大きな声で話すので、ほかの患者から相手にされないでいた。そのせいで、よくナースセンターへやってきてはくだらない話をだべっていた。
 婦長が数日前、根を上げてか森岡に話していた。
「小松さんはそろそろいいんじゃないでしょうか?」
「もう少し我慢してくれませんか。よくならない場合でも来月末には退院させますから」
 つい最近になって知ったことだが、病気の症状に関係なく入院期間は最高三ヵ月と決まっているらしい。そうじゃないと大勢いる待機患者がかたずかないのだ。それにほかの看護婦から聞いた話によれば、物理的な病気と違ってまともに治って退院していく患者は、まずいないのだという。大学講師はこの一年のあいだではいちばんの優良患者というのが、ナースセンターでのもっぱらの評価だった。
 結局森岡は二日後、小松の絶食療法にゴーサインを出した。
 それを聞いた小松のはしゃぎようといったらなかった。各病室を回り、
「やっと森岡先生のお許しが出たよ。これで田中さんみたいに元気になれそうだよ」
 と、飛んで跳ねて回っていた。ちなみに田中とは大学講師のことである。
 このことは当然三浦志保の耳にも入った。
「私もやれないものかしら。内山先生にはだめだって言われてるんだけど、やってみたいのよ。直接頼んでも相手にしてもらえないでしょうから、桜田さんから相談してみてくれないかしら?」
「別にかまいませんけど、看護婦から言ってみたところで同じだと思いますよ」
 案の定、そのあと回診にきた内山にそのことを報告すると、笑って首を横に振った。か細いつくりの三浦に絶食療法が適さないのは、素人目にも容易に判断できた。
 だいたいにして三浦はそんなことをしなくても日を追うごとに、亀が歩くようにだが回復の兆しを見せている。廊下に這ってしまう格好はあまりに気の毒で正視できなかったが、それも十日目を最後に見なくなった。しゃがみこんで休みながら壁を伝っての行軍は相変わらずだったが、階段を昇り降りして一階までいけるようになり、先週には病院の外を歩いてきたとかで大喜びだった。さらにテレビ、ラジオ、新聞など刺激のあるものを直接視界に入れたり聞いたりすることができなかったのが、新聞とラジオは見聞きできるようになったのだから格段の進歩といえた。