第三節 脱走患者  その2

 絶食療法は開始日前日の夜九時の就寝時間をもって始まりとなる。小松が絶食に入る晩、麻奈美が準夜勤にあたっていたのでその準備は麻奈美が担当になった。
 準備といってもたいしたことではなく、絶食中に部屋においていいのは洗面用具、内観法のテキスト、内観したことを記述するノートと筆記用具だけに限られるので、テレビやラジカセ、本のたぐいを一時ミーティング室に預かっておくためにその運び出しをするぐらいである。
「さあ、これで二週間はテレビが見れなくなりますよ」
「ええ・・・」
 軽い冷やかしのつもりだったが、小松はそうつぶやいたきり廊下へ出ていった。
 しばらくしてから部屋を覗いてみると不在で、念のため談話室も見てみたがそこにもおらず、周囲を見渡してみると廊下の突き当たりにある非常時の避難用テラスに出て夕焼けに顔をかざしていた。
「小松さん、困りますよ。ここは火事などのとき以外は一切出入り禁止です」
「すみません」
 こんなとき普段の小松なら白々しいほどの大きな笑い声をあげてごまかすものだが、素直に謝って部屋に引き篭もってしまった。
 八時、小松の部屋の前を通りがかるとドアが閉め切られていた。まだ就寝前ということもあり、気になってノックして開けて見る。すると小松は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「さあて、これでいよいよ山篭もりですね。あと一時間で始まりますよ」
 絶食療法のことを俗にそう呼んでいた。
「うん・・・」
「元気ないですね。談話室でタバコでも吸ってきたらどうですか。どうあがいても二週間、吸えませんからね」
 今度は返事がない。「緊張してるんですか?」
 小松は溜息をついてから向き直ると麻奈美の方に歩み寄り、ベッドに腰をを下ろした。
「こんな狭い部屋の中に二週間も居続けるなんて、できるんですかねえ。それこそおかしくなってしまわないですかねえ」
 唇は青くなっており、足は小刻みに震えている。それまでには見たこともない小松の姿だった。いつもなら、がなり立てる話し方がすっかり影をひそめていた。
「絶食に入る前は誰でも心配になるみたいですよ。それを乗り越えてこその絶食療法なんじゃないですか」
「そうですよねえ。このままじゃどうしようもないから、とにかくがんばらないと」
 こぶしをつくった右手までが、ぶるぶる震えていた。
「その調子・・」
 と言いかけたところで、突然小松が麻奈美の胸元に抱きついてきた。「なにをするんですか。人を呼びますよ」
 手にしていたバインダーで殴りつけた。
「違う、違うんです」
 どうにか小松を引き離し、ドアのところまで逃れた。
「こんなことをしてなにが違うんですか。婦長さんにいって、即刻退院させますよ」
「そうじゃないんです。少しのあいだ抱いてほしいだけなんです」
「・・・・・・?」
 小松は頭を抱えこむと大粒の涙を流し始めた。「そんな・・・。看護婦にそんな要求をされても困ります」
 麻奈美は踵を返すとドアを開け廊下に出たところで、悪いことに菊池に出くわした。
「ふふん、お盛んだこと」
 菊池は麻奈美の乱れた衣服を見て、鼻でせせら笑った。
 ほかの先輩看護婦から聞いたところによれば、菊池は森岡医師と付き合いがあったのだという。一度森岡医師と廊下ですれ違ったとき、食事に誘われたことがある。まったくそんな気はなかったのでその場で断ったが、その話をしているところを菊池に見られたのだ。それ以来麻奈美になにかと突っかかるようになった。
 ナースセンターにもどったが、しばらく激しい心臓の動悸をおさえることはできなかった。
 九時になって消灯合図のチャイムが鳴り響き、各部屋の見回りにいくために重い腰を上げる。と、こんな時間にはめずらしく森岡が現れた。
「あ、先生。小松さんがこれから絶食に入ります」
「うむ、わかってる。どんなようすかな?」
「え、ええ・・。だいじょうぶだと思います。それじゃ、すみませんけど小松さんの部屋は先生にお願いします」
「はいよ」
 軽い乗りで出ていった森岡の後ろ姿を見て麻奈美はもう一度すわり直し、胸をなで下ろした。
 ところが森岡はすぐにもどってきた。
「小松さんがいないんだよ。パジャマが脱ぎ捨ててあるけど、どこか出かけたかな?」
 さっきチェックしたばかりだが、談話室を覗いてみる。当然誰もいない。
「一階のロビーを見てきます」
 言い終わらないうちから麻奈美は廊下を走り始める。エレベーターではもどかしいので階段を駆け降りていった。
 ロビーはところどころに非常灯がついているだけで、どこにも人影はなかった。外に出て駐車場の周辺も眺め渡してみたが、小松らしい人物は見当たらなかった。
 荒い息づかいで病棟にもどると、森岡が呆れ顔で言う。
「逃げるくらいだったら、最初からやらしてくれなんて言わなきゃいいのになあ」
 過去に数回、絶食に入る前と絶食中に逃げだした患者がいたというのは婦長から聞いていた。
「あなた、ズボンとか靴も預かったの?」
 菊池が麻奈美の前に覆いかぶさるようにして訊いてきた。
「いいえ・・・」
 確かにマニュアルには外出できないようにするため、それらのものも預かるように記載されているのだが、ほかの看護婦から聞いたところによると「逃げる気になればパジャマとスリッパで病院の前からタクシーに乗っていくんだから、そんなことまで必要ないわよ」と言うので、そこまではしなかったのだ。
「手を抜いた仕事をするからこんなことになるのよ」
「まあまあ、あくまで本人のやる気の問題であって誰の責任でもないさ」
 森岡があいだに入って取りなした。

荷物

「どうしたらいいんでしょう?」
「自宅に電話を入れて、ここを出たことと明日にでも荷物を取りにくるように伝えておけばいいよ。なんか拍子抜けだなあ。もう少し本でも読むか・・・」
 森岡は自分で肩を叩きながら帰っていった。
 さっそく小松の自宅を電話を入れて事情を説明すると、奥さんは、さもめんどくさそうに言う。
「小さな子どもだっているし、きちんと病気を治してから帰すようにしてもらわないと困るんです。こっちに連れもどしにきてもらえませんか」
 一瞬喉が詰まって声が出なかったが、気を取り直し、
「とにかく荷物をまとめておきますから明日中に取りにきてください。失礼します」
 と、一方的に言って受話器をおいた。
 奥さんは一度たりとも病院にきたためしがない。常識では考えられないことなので看護婦のあいだでも話題にのぼり、家庭内離婚の状態にあるのだろうというのが結論だったが、婦長が言うことには「精神科系統ではそうめずらしいことじゃないのよ。家族のお荷物になってしまっているのね」という説明だった。
 消灯前、談話室のテレビを消す際、テーブルの上に誰かが忘れていったタバコを見つけた。明日の朝でも返そうと思い机においておいといたが、麻奈美はそのタバコを手にすると休憩室にいって吸った。少々むせかえりながらスパスパと・・・。
 だが五分とたたないうちに、
「大変よ。小松さんのことで警察から電話が入ってるわ」
 と、菊池が泡を食って飛びこんできたのだ。なにがどうなってるのか見当もつかず、とにかく受話器を取った。
「中央署刑事課の者なんですが、そちらに入院している小松明彦が国分町で暴行傷害事件を起こしましたので現行犯逮捕しました」
「暴行傷害って、誰かに怪我を負わせたんですか?」
 麻奈美は軽い目眩を覚えながらも、大声で問い返していた。
「ええ、そうです。本人はかなり興奮状態にありまして自殺の恐れがあります。そこで、できましたら主治医の先生に至急こちらにお越しいただくよう手配してもらえないでしょうか」
「わ、わかりました」
 受話器を手にしたままフックだけを押し、すぐ心療内科外来の内線番号をプッシュした。さっき森岡が帰っていくとき、本を読むと言っていたのを思い出したのだ。
 狙いどおり、森岡が出た。
「そうか、最悪の事態になったな。わかった、これからいってくるよ」
 それからはただただ小松のことが気になって、仕事が手につかなかった。幸いナースコールで呼ばれることもなく、容体聴取でメモしたことをカルテに書き取るのと見回りぐらいしか仕事はなかった。
 森岡が疲れた顔をしてもどってきたときには、時計の針は零時をまわっていた。
「午後からずっと気分がすぐれなくて、絶食の準備が始まった夕方あたりからいてもたってもいられなくなったそうだ」
「絶食へのプレッシャーからですか?」
「直接的にはそういうことになるんだろうが、根本原因はやはりもともとの病気のせいさ。恐怖観念にとらわれてしまってるんだな。我慢ができなくて八時ぐらいにここを出たそうだ」
「アアー・・・・」
 麻奈美が両手で口を押さえたのを、森岡と菊池は目を丸くして見た。
「どうしたんだい?」
「い、いいえ、なんでもないです」
「タクシーに乗って国分町までいくとしばらくぶらぶらしてた後、道を一本外れた裏通りに入ったところで残業帰りのOLをすれ違いざまに抱きついていったそうだ。強姦をするとはな。俺に油断があったかもしれん」
「違います。そんなんじゃありません」
「なにが違うんだね。若い女を押し倒して怪我をさせたというのは目撃者が大勢いるんだから、動かしようのない事実なんだよ」
「そうじゃない、私のせいなんです」
 麻奈美は机の上に泣き崩れた。
「どういう意味なんだね? わかるように話してくれないか」
 森岡は麻奈美の背中をさすりながら訊いた。
「あなた、あのときのことを言ってるのね。やっぱりなんかちょっかいを出したでんしょう。それでむらむらきて、国分町まで出かけていって悪さをしてしまったんじゃない」
 菊池が意地悪く言った。
「そんなことはしてません。されたのは私の方です」
 伏せていたのを起き上がり、菊池を睨みつけた。そして、小松が出ていく前のことをかい摘んで説明した。
「なるほど、ここにいたときからそんなことがあったのか。やっぱり絶食はやらせるべきじゃなかったな」
「それで小松さんはどうなったんですか? 刑務所に入るんですか」
「いや、心神喪失状態での犯行だろうから起訴にはならないさ。ただ、しばらくは鉄格子の病院から出られないだろうな。ここに閉鎖病棟はないから、青葉区のA病院に連れていったよ」
「どうしよう、私のせいだわ」
 また、泣き出した麻奈美に、
「そうよ、ちょっと抱いてやるぐらいなんだっていうのよ」
 菊池が罵声を浴びせるように言った。
「よさないか!」
 森岡の一喝に、菊池は懐中電灯を片手に見回りに出ていった。