第四節 絶食療法  その1

 村上隆行が入院してきた。麻奈美が外来にいたときから火曜日と金曜日の十二時、几帳面なぐらい時間どおりにきていた。
 村上の入院は当初から絶食療法を受けるのが目的で、入院の翌日からやることになっていた。不思議なのは外来のときもそうだったが、カルテの病名や病状を記載する個所が空欄になっていることだった。住所も宮城県内ではなく、福島市になっているところが妙に引っかかった。
 入院翌日、巡り合わせの悪いことに麻奈美は夕方五時から深夜一時までの準夜勤になっており、絶食に入るための準備の担当は麻奈美が当たってしまった。
 村上はスポーツバッグひとつだけで、よけいな物は一切もってきてなかったので特別手間のかかることはなかったが、小松のときのこともあるのでズボンと靴に関してはどうしたものか考えこんでしまった。
 ところがそれは無用の心配だったようで村上は、
「ズボンと靴、現金も入ってますから」
 と、スポーツバッグごと差し出してきたのだ。それだけでなく内観したことを書いていくためのノート、筆記用具など、内山から教わってきたのか用意がすべて整っていた。
 消灯したあとの見回り、ノックしておそるおそるドアを開ける。部屋の明かりは消えていたがスタンドが灯っており、その明かりに浮かぶように頭の後ろに両手を回して仰向けに寝た村上がいた。
「おやすみなさい」
 言葉には出さなかったものの、天井の一点を見つめたまま首だけをこくっと動かした。麻奈美はスキップでナースセンターにもどった。
 
 絶食は二日目、三日目と平穏に進んでいった。
 村上は静かに内観法のテキストを読んでいるか内観をしているか、さもなければ寝ているかで、まったく手のかからない模範的患者だったが、生きていくための最低限必要な栄養剤が入った五百ミリリットルの点滴液の注射をするときだけは苦手そうな一面を見せた。それも点滴をやっているあいだ冷汗を流していることがあり、注射針を抜くときにはオーバーとも思える様相で安堵の表情を浮かべるのだった。
 四日目になって村上は少ない口数の中に、胸のむかつきと口の中に胃液が上がってきてすっぱくなることを訴え始めた。
 内山医師に報告すると涼しい顔で言ってくる。
「なにも食べてないんだから当たり前のことさ。それより水分を摂取するのが少ないんで私からよく言ってはいるんだが、看護婦さんからも飲むようにしつこく言ってくれたまえ」
 脱水症状になるのを防ぐため一日一リットル以上の水か差し入れの玄米茶を飲む決まりになっている。空腹の極みにあるのだから水ぐらいいくらでも入るのだろうと思っていたが、そうでもないらしい。
 絶食療法は十五日間全部を絶食するわけではなく、十日間の絶食期と五日間の復食期に分けられる。十日目、最後の点滴は麻奈美が日勤のときだったので麻奈美が注射針を抜いたが、村上は何気なく、
「はあ、よかったあ。どうにか暴れずにすんだ」
 と、ギョッとするようなことをつぶやいた。
 その翌日、復食第一食目となる昼食。そのメニューは重湯(おもゆ)一○○t、牛乳一○○t、梅干一個という赤ちゃんの食事かと思ってしまうほどの内容だが、胃が収縮してしまっているため、初めはこれぐらいが適量なのだそうだ。ベテランの先輩看護婦から聞いたところによると、これでも胃が受けつけずに吐いてしまう患者もいるという。
 膳を運んでいくと村上は喉をごくりと鳴らし、器まで食いついてしまうようなようすで身を乗り出した。その食べる様を見たくてドアを閉め切らず隙間から眺めていると意外にも手を合わせて拝んだ。なんと、その目には涙さえ潤わせていた。
 さらに二食目の夕食も終わり、麻奈美は訊きたくもないことを訊くために村上の部屋にいった。これで三度目だった。
「便は出ましたか?」
「いえ、まだ出ません」
 目もとを緩ませて、バツの悪そうな顔で言った。
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね」
 麻奈美はいったんナースセンターにもどると、倉庫棚からアイスシャーベットの凍りつく前のような物をもって、また村上の部屋にいった。
「まいったなあ、やるんですか?」
 苦笑とはいえ、それまで見たことのない笑顔だった。
「え、なにをするか知ってるんですか?」
「浣腸でしょう。横になればいいんですか」
 村上は頭をかきかき、身体を後ろ向きに横たえた。
「ええ、それでパジャマとパンツを下ろしてください」
 実習で尿管結石の患者がレントゲンを撮るときに一度経験しただけだったので、いくらか手先が震えたが支障なく液を入れることができた。と同時に、村上が「ううー」とうなり声をあげ、腹を押さえながらトイレに走っていった。

復食

 十分してから、またまた村上の部屋。
「今度は出ましたね?」
「ええ、おかげでやっと出ました」
 普通なら顔を伏せて言ってしまいそうなところを、村上はしっかり麻奈美の顔を見据え晴れ晴れとした表情で言った。
「色はどんな感じでしたか?」
「だいじょうぶです、真っ黒な血便でした。いっぱい出ましたから胃をこわすようなことはありません、ハハ」
 と、笑みさえこぼした。
 血便とは、胃の中に残った内容物が血にまみれて黒くなった物を差す。十日間水分以外の物は取らないため胃に残った内容物が腐敗して細菌が涌き、その細菌に対し消毒作用で胃壁から血液が出てくるのである。そのまま放っておくとよけいな病気を併発してしまう恐れがあるので、復食後はいっときでも早く外に放出することが要求される。絶食で便を出す必要がなかったため自力で便を出す機能が低下してしまっているので、出ないときは浣腸をするのである。
「詳しいんですね。お医者さんみたい・・・」
 それまで麻奈美の目を見てしゃべっていたのが、急に窓の外に視線を変えた。
「ええ、そうなんです」
「はあ・・?」
「福島市にあるF医科大学で外科医をやってるんです」
「ええっ! ほんとにお医者さんなんですか?」
 村上はまた麻奈美の方を見て、しっかり首を縦に振った。
「半年ほど前から手術のとき、メスを持つ右手が震えるようになりましてね。終いには簡単な手術で切らなくてもいい個所を切ってしまいました。そのときからメスだけでなく刃物とか先の尖った物を目の当たりにすると、やたら緊張するようになりましてねえ」
「点滴の注射が嫌いなのはそのためなんですか?」
「ええ、何度引き抜きそうになったかわかりません。学内でいろいろ精密検査は受けたんですが、どこも異常なしでした。教授に、最後には精神科にいくように言われましてね。同じ大学病院で精神科に通うなんてできっこありません。それで教授とはT大学で同期だった内山先生を紹介してもらって仙台まできたんです。福島県内じゃ、変な噂がたって医者をやってられなくなったら大変ですからね」
「それで、カルテの職業欄なんかは空欄になってるんですね」
「すみません、おかしな男だと思ったでしょうね。実際おかしいわけですけど・・、アハハハ」
 心の底からこみ上げてくるような笑いだった。
「内観はだいぶ進んでるんですか?」
「ぼちぼちってところですか。興味があるんだったら読んでみますか? なにかの参考になるかもしれません」
「え、かまわないんですか」
 村上は黙ってノートを差し出してきた。看護婦はそこまで立ち入る必要ないとのことで、これまで中味までは見たことはなかった。
 大学ノート数ページのあいだに幼児期から小学六年生までのことが、びっしり書き連ねてあった。中でも二年生のときのことが傑作で、花火をいたずらして空地に積み上げてあった藁を燃やしてしまい、民家にまで延焼しそうになったことが記されてあった。そのことによって両親にはさんざんな迷惑をかけたことを深く反省している、と結んであった。
「ふーん、こういうことをやってるんですか」
 一応の理屈はレクチャーのときに教えられ、わかったつもりでいたが、実際読んでみると思っていた以上のインパクトがあった。
「テキストを読んでみても内観法の理論はまだよくわからないんですが、とにかく気分はスッーとしてきます。不思議なものですね」
「よかったですね。あともう少しですから、がんばってください」
「ええ、ありがとう。ところで桜田さんは日勤だったんじゃないですか。もう、とっくに上がってる時間でしょう?」
「交代の看護婦が都合で遅れてるので、その分超過勤務なんです。でも、そんなことを気にかけていてくれたんですね」
 麻奈美ははにかみながら、村上の部屋をあとにした。