第四節 絶食療法  その2

 その翌日も麻奈美は日勤だったが、村上は検温のときそれまでとは別人のように仕事のこと以外にも、仙台市内の病院に勤めている友人のマンションの一室を借りて居候をしていること。婚約者がいたが、うまくいかなくなって式を挙げる直前になって取りやめたことなど、それこそ堰を切ったように話しかけてきた。
 さらに翌日、この日は準夜勤で夜の容体聴取のときもゆうに三十分は話しこんでしまった。おかげでパートナーの看護婦から文句を言われる始末だった。
 時計の針が深夜零時を過ぎ、最後の見回りをやって交代という時間になった。ここで麻奈美はちょっとしたイタズラを思いついた。
 まず最初に村上の部屋を回ることにし、麻奈美は足音を忍ばせて近づきドアも音が出ないように細心の注意をはらって開けた。いつも寝付かれないとのことでこの時間でも起きていることはめずらしくなかったので、びっくりさせてやろうという算段だったが、残念ながらスタンドの電気は消えていた。
 それでも見回りである以上、本人には気づかれないよう足元からそっと懐中電灯の光を当てた。ところが村上は仰向けになってはいたが、パンツを下げて腰のあたりを丸出しにしているではないか。しかも男にはとっては命の次に大事なモノが、天井に向かってそびえ立っているのだ。
 突如のことに村上は焦って身体を横にし、毛布を被った。
「あ、おしっこだったの。ごめんなさい」
 麻奈美も慌てて背を向け、廊下に出た。
 「ふっー」と溜息をつき、はたと考える。おかしい、村上はトイレにいくのはもちろん、普通に動くのさえなんの問題もない患者だ。それがどうしてベッドの上で用を足す必要があるのか。尿瓶があるわけでもないから、実際問題としてもやりようがない。いったいなにを・・・と、そこまで考えたところで、やっとひらめくものがあった。
「ああ、ドジなカンゴフ・・・」
 とつぶやきながら、自分の頭をポカリとやった。
 次の日も準夜勤だったが、不安に思っていたことが現実になった。容体聴取のとき、村上は初めに、
「どこも異常ありません」
 と言ったきり、あとはなにを訊いても背を向けたまま口をきいてくれないのだ。就寝時の見回りのときも、頭からすっぽり毛布にくるまってなんの反応も示さなかった。もとの木阿弥だった。
 仕事が終わるとアパートには帰らず、重い足どりで病院の裏手にある寮にいった。深夜一時を回っているとはいえ、深夜勤との交代の時間帯にあたるので部屋にはところどころ明かりが灯っていたが、由紀子の部屋から明かりは洩れていなかった。
「由紀子、いる?」
 思ったとおり返事はない。ノブをそっと押しやってみると、ドアは開いた。「由紀子、寝てるの? 入るわよ」
 窓から入ってくる明かりで、ベッドの上がもそもそ動くのがわかった。
「ああ、麻奈美。なによ、こんな時間に・・・」
「ちょっと訊きたいことがあって。電気つけるわよ」
 蛍光灯がつくと、由紀子はフトンの中へもぐった。「もう充分寝たんでしょう。起きてよ」
「交代要員の子が風邪で休んで、まる十六時間働き詰めだったのよ。まだまだ寝足りないわ」
「そうだったの。じゃあ、またにしようか」
 それまでどんな風に尋ねたものか、いろいろ考えていたものが一挙にしぼんでしまった。
「いいわよ。どうせ目が覚めてしまったんだから」
 由紀子はむっくりフトンから起き上がると、すぐタバコをとって火をつけた。「それでなによ。訊きたいことって?」
「ううん、たいしたことじゃないんだけど、最近東京に遊びにいったことはあるの?」
 由紀子は煙を麻奈美に吐きかけるようにして出しながら、
「勤めるようになってからは一度だけね」
 と、いくらか投げやりに言った。
「ふーん、テレクラなんかもやってるの?」
「・・・・・・!?」
「あ、ゴメン」
「あんたねえ、そんなことを訊くためにこんな夜中に押しかけてきたの。テレクラなんか、ようは電話を入れさえすれば、あとは男がリードくれるから相手の言うことを聞いてればいいのよ。学校のときにいっしょに電話したでしょう」
「ううん、そうじゃないの。そんなんじゃないのよ」
「だったらなによ?」
 タバコの煙がやたら麻奈美の顔を襲った。
「由紀子、男の人ってよく自分で出したりするものなの」
「え、なにをよ?」
「だから、自分でしたりするでしょう」
「なにを? 麻奈美、どうでもいいけどわかるように話してくれない」
 由紀子はいらつきぎみに訊いた。
「オナニー、マスターベーションのことよ」
「エッ・・!?」
 由紀子は目の玉が飛び出してきそうなくらいに、大きく見開いて麻奈美を見つめた。「へえ、麻奈美の口からそんなことを聞くとは思わなかったわ。で、それのなにを訊きたいの?」
「なにって、そういうことに関しての男の人の性癖とか、女がやってやるならどんな風にやればいいのかと思って」
「アハハハ・・・」
 突然由紀子はベッドにひっくり返って大笑いを始めた。
「笑わないでよ。これでも真剣なんだから」
「そうか、麻奈美にもついに彼しができたんだ。ついにオンナになったか。どこの誰よ。ひょっとしたら心療内科の森岡先生?」
「違うわ。そういうわけじゃ・・」
 と言いかけて、麻奈美は唾を飲みこんだ。「ま、そんなとこよ。そのうち教えてあげるわ」
「なるほどね、麻奈美にも春がやってきたか。あれはね、男の場合、小便が詰まると出したくなるのといっしょで定期的に出す必要があるのよ。その間隔は人によって千差万別でしょうけどね。独身の男はもちろん、奥さんがいてもけっこう自分でやったりするらしいわよ。付き合ったことのある所帯持ちの男に聞いたことだからまちがいないわ」
「ふーん、そうだったんだ」
 麻奈美は焦点の合わない瞳で一点を見つめ、うなづいた。
「彼しがやってるところを見てしまったの。女だってするんだし、別に気にするようなことじゃないわよ」
「う、うん。それって神経病にも効くのかしら?」
「アハハ、すっきりするんだから効くんじゃないの。先生に訊いてみれば・・」
「そ、そうね、今度訊いてみる。それを女の方からしてあげたりしたら、おかしいものなの?」
「むずかしい質問ね。相手からなんの注文もないならやめておいた方が無難かもしれないわ。積極的にやったりしたらヤンキーだと思われて、それきり振られるかもしれないからね。かと思うと、口に含んであげると感激する男もいるしね」
「え・・、フェラチオとかいうやつ?」
「なにを真っ赤になってるの。もう処女は捨てたわけでしょう。今さら照れるようなことじゃないでしょうに」
「そ、そうね」
「おかしな子ね。要は付き合いの程度と相手の男がどんなタイプの人間かによってきまってくるわね。しばらくはようすを見ることよ。やり方は・・・。よし、麻奈美の幸せのために実施練習といくか」
 由紀子はやおら立ち上がると、机の引き出しからペンシル型の懐中電灯を持ち出してきた。「いーい、ちょっと細めだけどこれがなにかわかるわね」
「う、うん・・・」
 とりとめもない話を交えての奇妙な講習は、明け方まで続いた。

病院の廊下

 一日おいての深夜勤の日、交代で引き継ぎの打ち合わせを終えると、麻奈美はすぐ村上の部屋に足を向けた。都合がいいことに、ドアの隙間からは明かりが洩れている。
「こんばんは。おかわりありませんか」
 村上は麻奈美とわかると無言のまますぐ書きかけのノートを閉じ、毛布を頭から被ってベッドに背を向けて横になった。
「ふー、ふー」
 麻奈美は二回深呼吸をしたあと毛布をはぎ取り、村上の身体を無理やり仰向けに変えた。
「うわっ、なにをするんですか。やめてください」
「黙って、ほかの人に迷惑をかけますから静かにしててください」
 今度はパジャマとパンツを下ろしにかかったが、村上が必死に抵抗してゴムのあたりを掴んで離さなかった。
「人を呼びますよ」
 ナースコールのボタンを手にした。
「ふ、くくく・・」
 かつて、同じこの部屋で自分が吐いたセリフだった。
「なにがおかしいんですか?」
「なんでもありません。もう、村上さんのお尻の穴だって見てるんですよ。今さら気にしなくたっていいでしょう」
「ふっ・・・」
 今度は村上が吹き出した。
「この前、村上さんが自分でやろうとしてたことを私にやらしてほしいんです。いやですか」
「な、なんてことを。ソープランドじゃあるまいし」
「このままじゃ、村上さんにとっても私にとってもよくないと思うんです。福島の大学病院にもどりたくはないんですか?」
「・・・・・・!?」
「私をソープ嬢と思ってくれてけっこうですから、好きなようにやらしてください」
 それを聞くと、村上はしっかりもっていたパンツの端から手を離し、力を抜いた。
「看護婦さんは仕事の反動があって、かなり遊ぶって聞いたけどほんとなんだなあ」
 天井を見上げ、独り言をつぶやくように言った。
「そんなことありません。人によっていろいろです。それから一つだけ約束してください」
「はい」
「私に対しては絶対に変なことはしないこと。いいですね」
「はあ・・!?」
「じゃ、いきますよ」
 慣れぬ手つきでパンツを下ろしにかかる。
「どうしたの? 手が震えてるよ」
「いいから、静かにおとなしくしててください」
 麻奈美は半ば怒ったようにして言った。
 
 それから四日後、勤務を終えての夕方、玄関を出たところで声をかけられた。
「桜田くん、帰るところかね」
「ええ、日勤だったものですから」
 後ろから小走りに駆けてきたのは内山医師だった。
「村上君が君にはいろいろ、いいアドバイスをしてもらったって言ってたよ。医者として見習わなくては思ってるんで、教えてくれるかね?」
「そんな・・。普通の世間話しかしてませんよ。福島の大学病院で外科医に復帰できそうですか?」
「そうか、そんな話までしていったんだ」
 内山は目を細め、自分の娘でも見るかのように微笑みかけた。
「絶食療法のおかげで、だいぶ自信がついたとは言ってたんですけどねえ」
「うむ、正直いってどっちともいえん。外科医は指先の器用さを要求される仕事だからな。ストレスがきれいさっぱり消えてくれれば以前のようにやれるかもしれんが、一度頭に焼き付いたものはなかなかとれんでなあ。病気を治そう、治したいという願望が強すぎると、それがかえってストレスを蓄積することになる。肝心なのは病気と友達になって生きていくということなんだ。彼に、どこまでそれが理解できたかだな」
 村上は絶食療法を終えた三日後の昨日、退院していった。昨日は麻奈美は休みにあたっていたので、挨拶はその前日にすませていた。
「いずれ実家近くに帰りたいって言ってたけど、ここにはいつぐらいまでいるの?」
「勤めてまだ三ヵ月ですよ。一人前になるまでは何年もいますよ」
「そうだね。これでどうにか医局にもどれるよ。手術はすぐに前のようにはできなくても、焦らずに時間をかけて動物実験から少しづつやっていけば、必ずもとどおりにやれると思うんだ。仕事が落ちついたら、挨拶がてらきてみるよ。新幹線を使えば一時間もかからないからね」
「ええ、いつでもいらしてください」
 麻奈美が部屋を出ようとしたとき、まだなにか言いたそうな素振りだったが、それ以上声をかけてくることもなかったので、麻奈美もいくらか後ろ髪を引かれる思いでその場をあとにしたのだった。