第五節 疑似ソープ嬢

 一年が過ぎた。そのあいだに二人の先輩が結婚退職し、その補充に去年の麻奈美たちと同じように看護学校を卒業したての子が入り、麻奈美もいつのまにか「先輩」と呼ばれるようになっていた。
 ある日の準夜勤の日、夜十一時、麻奈美はもうひとりの看護婦と交代して五十分の休憩をとるため休憩室に入った。シャワーを浴び、缶ジュースを飲んでひと息ついているところにドアをノックする者があり、誰かと思っていると、なんと婦長が現れた。
 通常、婦長は日勤しかせず、残業で残っていたとしてもせいぜい七時ぐらいまでだった。
「こんな遅くにどうしたんですか?」
「かたづけごとをやってたら、いつのまにか時間がたってしまってね。それにあなたに話したいこともあってね。ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょうか?」
「ふた月前ほどに、あなたに言いかけたことがあったわね」
「え、なにをですか?」
 意識したわけでもないのに背筋がピーンと張った。
「あなたのことで、患者のあいだで変な噂がたってるのよ。何人かの看護婦にも聞いてみたわ。もし、まちがえているならはっきりそう言ってほしいんだけど、あなたが個室の患者を相手にヘルスとかピンクサロンていうの。そういうところでやってることを、あなたがしてるっていうのよ」
「・・・・・・」
「それからこれを見てちょうだい。投書箱に入ってたものよ」
 封筒から一枚の便箋を取り出した。

佐藤院長 様
 ある方から聞いた話しなのですが、心療内科には気持ちのいいことをしてれる看護婦さんがいると聞きました。四月の配置替えのときには、ぜひ放射線科に移していただけないでしょうか。
 限られた命です。冥土への土産として旅立てたらと思っておりますので、よろしくお願いします。
ある患者より 

「文面から男性だってことがわかるわね。名前が書いてなくても、放射線科の癌の患者で手遅れだっていう人はおのずと限られてくるわ。筆跡からもね。本人に確かめたところ、心療内科だけでなく他の階の患者にも知られているそうよ。火の気のないところに煙は立たずっていうけど、そうなの?」
「・・・・・・」
「なんの反論もしないと、肯定していると解釈するしかないわよ」
 婦長は溜息をつくと、右手で額の両側を包むように押さえた。
「どうしてなの。あなたは内山先生からも森岡先生からも評判がいいわ。私の目から見ててもよく勉強してるし、いっしょうけんめいやってくれてると思うわ。そのあなたがなぜなのよ。遊ぶのならプライベートな時間におやんなさい。なにも仕事中に、精神不安定な神経病の患者を相手にそんなことをしなくたっていいでしょう」
「・・・・・・」
 麻奈美は壁の一点を見つめたまま、終始無言だった。
「さっき院長、事務長と話し合ったんだけど、松島湾に浮かぶ離島の診療所がうちの病院と提携関係にあるのは知ってるわね。医師は内科の先生方が数カ月おきに交替で詰めてるけど、看護婦は地元の人にやってもらってるわ。その方から家庭の事情で、去年の暮れから辞めたいっていう申し出があるのよ。代わりの人が見つからないものだからこれまで無理してやってきてもらったんだけど、その後釜にあなたにいってもらうことにするわ。明日中には正式の辞令を出しますから、そのつもりでいてちょうだい」
 婦長は麻奈美の意向を確かめることもなく、立ち上がって出口に向かった。
「誰に迷惑をかけたっていうんですか」
 静かに、通る声で言った。
「なにを言ってるの?」
 婦長は足を止め、麻奈美を睨んだ。
「絶食をやる患者さんはみんながみんな、精神的には極限状態にあるんです。だからこそ普通ならできないことを自らの意志でやって乗り越えようとしてるんです。その患者さんが自慰行為をするときに、私がちょっとお手伝いをすることがどんな罪になるというんですか」
「愚かなことを・・。そんなのは看護婦の仕事じゃないでしょう。看護学校でそんなことをしてあげなさいって教わってきたの」
「患者さんには可能な限り、誠心誠意尽くすようにと教わりました。患者さんの中には涙を流して喜んでくれた方もいます。退院するときには、おかげで病気が治るかもしれないって言ったくれた人が何人もいるんです。それをどうしてそんな仕打ちをされないといけないんですか」
「誠心誠意の意味をはき違えてるわ。それに、変な風評がたってごらんなさい。ここは病院なのよ。色っぽい商売をやってるわけじゃないの。患者が寄りつかなくなるわ。あなたの軽薄な行動が病院の名誉に取り返しのつかないキズを与えることになるのよ」
「そんなつもりはありません」
「なくても結果的にはそうなるの。これ以上話したところで時間の無駄ね。静かなところでゆっくり考えてごらんなさい」
 婦長は再び出口に向かって歩いていった。
「婦長さん、辞令を出すのは明後日以降にしてください」
 振り返ったその顔で、麻奈美の目を凝視した。
「そう、わかったわ。その方がいいかもしれないわね」
 最後は穏やかな笑みを見せ、静かに立ち去った。
 それから深夜勤と交代になる午前一時までのあいだ、頭が真っ白になったままでなにをしたかろくに覚えていない。気がつけば小雨がぱらつく中を病院の前の道路に立って、近づいてくるタクシーに向かって手を上げていた。
「どこまでですか?」
「四号線を北上してください」
 車は信号を右折し国道に出た。
「お客さん、石鹸の香りがいいですね」
「ああ、はい・・」
 さっきシャワーを浴びたとき、軽くシャンプーも使ったのでその匂いが残っていた。
「きょうは忙しかったですか?」
「ええと、普通ですけど」
 妙なことを訊いてくるとは思いながら、実際そうだったのでそう答えた。
「ふーん、普通っていうと五、六人てとこですか?」
「はあ・・・?」
 まるで要領を得ない質問だった。

タクシーの車内

 暗い中、ルームミラー越しに運転手の顔を見ると目が笑っている。そこでようやく、仕事を始めたころ先輩が歓迎会の席上、「石鹸の匂いをさせて深夜タクシーに乗ると、ソープ嬢にまちがえられるわよ」と言っていたのを思い出した。
「バカにしないでください!」
 と、運転手の肩を掴んで叫んだ。運転手はびっくりして車を急停車させた。
「お客さん、冗談ですよ。第一病院の看護婦さんでしょう。この時間は交代の時間だから、よくあそこから乗せるんですよ」
「ひどい、ひど過ぎます」
「まいったなあ。謝りますから勘弁してくださいよ」
 運転手は身体を後ろ向きにひねりながら両手を合わせた。
 うつむいたまま黙りこくっている麻奈美に、運転手は車を出すに出せず、しきりに頭をかいた。
「心からそう思って言ってるんですか?」
 半べそをかいたまま、鼻声で言った。
「ええ、ほんとにすみません。このとおりです」
 今度は帽子を脱いで頭を下げた。
「じゃあ、私のいうことをきいてください」
「料金をタダにしろってんですかい?」
 運転手は苦り切った表情で言った。
「そんなんじゃありません。とにかく車を出してください」
「へえ、もう肩を掴むのはやめてくださいよ。事故を起こしたら大変ですからね」
 麻奈美の顔から、「くすっ」という笑みがこぼれた。
「運転手さんは結婚してるんですか?」
「中学生のガキがいますよ。生意気盛りでしてねえ。親のいうことなんかまともに聞きゃしませんよ」
「運転手さんは若い女の子は嫌いですか?」
「え・・。いやあ、嫌いなわけはないですよ」
 突如とした質問に、目を白黒させながらも鼻の下を長くして言った。
「私はどうですか。運転手さんのタイプですか?」
「そ、そりゃ娘さんみたいにかわわい子だったら、いうことないんじゃないですか」
「だったらあそこで、しばらく付き合ってください」
 麻奈美が指差したのは、暗闇の中に浮かぶラブホテルのネオンサインだった。
「えっ!」
 車はまたもや急停車した。「お客さん、本気かい?」
 麻奈美の顔を見て問い返してくる運転手に、
「こんなこと冗談で言えるわけないでしょ」
 と、投げやりに答えた。
「よっしゃ、据え膳食わぬは男の恥っていうからな」
 車はゼロヨン張りで急発進した。「娘さん、こう言ったらなんだけど、かなりやりまくっている方なのかい?」
「失礼ね。百人前後ってところじゃないかしら。六本木とか赤坂にもいったから、白いのとか黒いのともしたことあるわ」
「そう・・・。シロいのともクロいのともね」
 とつぶやいたあとで、運転手は喉をゴクリと鳴らした。
 そうこうしているうち、車はラブホテルのネオンサインを真左に見るようになった。
「そろそろ曲がらないと通り越してしまうわよ」
「悪いんだけどやめとくよ。ほら、今はエイズとかいろいろ問題になってるだろう。その代わりって言っちゃなんだけど、料金は入らないからさ」
「フン、だらしないのね。いいわ、Uターンして市役所までやってちょうだい」
「はいよ。仕事を終えて疲れてるんだろうに、さすがに若さだね」
 あとには、カッチ、カッチというワイパーの音だけが車内を支配した。
 市役所の前に着くと、麻奈美はすぐ電話ボックスに入った。電話機周辺にべたべた貼られたチラシやステッカーをひととおり眺め渡すと受話器を取り、支柱に貼られた小さなステッカーに印刷されているフリーダイヤルの番号をプッシュした。
『もしもし、こんばんは』
「こんばんは。年はいくつの方ですか?」
『三十五だけど、おじさんは嫌いかな?』
「いいえ、特に気にしません」
『そりゃよかった。君は?』
「二十二です。これから会ってセックスしませんか?」
『えっ・・。ああ、いいよ』
 男は少なからず戸惑ったようすだった。
「そちらはどこから電話してるんですか。できたら迎えにきてください」
『ああ、わかった。県庁近くのマンションだけど、今どこにいるんだい?』
「市役所前の公衆電話です」
『あそこか、すぐ近くだよ。五分でいくよ。それじゃ、あとで・・』
 麻奈美は受話器をフックにかけるのも忘れ、そのまましゃがみこんで泣いた。あとには『ツー、ツー』という話中音だけが、ネオンだけはにぎやかな繁華街の静けさの中に鳴り響いた。