最終節 意外な医師の出現

 地下鉄に乗る前から調子は悪かった。電車ですわっている分にはまだ我慢できたが、勾当台公園駅を降りて歩き始めてからはどうしようもない腹痛が襲ってきた。
 脇腹を抱えながら立ち止まっては歩き、歩いては立ち止まって休んだ。おぼつかない足どりながらもどうにか国分町の通りにまで入ってきた。店まであと十メーターというところで、ついにしゃがみこんでしまった。
「具合が悪いんですか?」
 通りがかりの人が声をかけてきた。
「いいえ、持病みたいなもので休んでいれば治りますからだいじょぶです」
「私、看護婦ですから遠慮することはありま・・・。あら、麻奈美じゃない?」
 その声に驚いて顔を上げた。
「ああ、由紀子!」
「由紀子じゃないわよ。私の知らないうちに病院を辞めて、アパートも引っ越してしまうんだもの。心配してたのよ」
「ごめん、いろいろあったから」
 看護学校時代の友人には一切連絡をとっていなかった。
「それにしたって水くさいじゃない。今はどこの病院にいるの?」
 そのときすぐ横に立ち止まって二人を覗きこんでくる女がいた。
「おはよう。またお腹が痛むんでしょう。肩をかそうか」
「この子がいるからだいじょうぶ。先にいってて。あとからいくから」
「そう。じゃ、あとでね」
 女は由紀子に軽く会釈し、先に歩いていった。
 そのあとを由紀子は視線で追っていき、女が入っていった店の看板を見て目を見張った。
「ファッションマッサージ。あそこに麻奈美が勤めてるの?」
「・・・・・・」
「もう、なにをやってるのよ。とにかくこのままじゃなんだから病院へいかないと」
 由紀子はちょうど走ってきたタクシーを止めた。
「あ、だめよ。お店があるから」
 麻奈美の言うことにはかまわず、由紀子は押しこむようにして麻奈美をタクシーに乗せた。
「仙台第一病院へやってください」
「いやよ、あそこだけは絶対にいかない」
「それもそうか。それじゃどうしようか・・・」
 少し考えこんだあと、「泉区のD病院へやってください。あそこならいいでしょう」
「どっちみち、この時間じゃ終わってるわ」
「だいじょうぶ、整形外科の梶原先生を知ってるでしょう。きょうは週に一度、D病院へいってる日なのよ。まだいると思うから、私の顔パスで診てもらうわ」
「この症状は整形外科の領域じゃないわよ」
「医者なんだから専門外でもどうにかしてくれるわよ。それにあそこも総合病院だから、いろんな科があるしね」
「うん・・・」
「それにしたって、どうしてあんな仕事をするようになったの。別にああいうことがいけないって言ってるわけじゃないのよ。あんたには向かないって言ってるの」
「・・・・・・」
 麻奈美は由紀子の膝の上で、うとうとし始めていた。
 
 その日は痛み止めの薬をもらって帰った。由紀子が精密検査を受けるようしつこく言ってくるので、しかたなく次の日から本格的な検査をすることにし、それも麻奈美ひとりではこなくなる恐れがあるので、由紀子が空いた時間を利用して付き添うことになった。
 検査は血液検査から始まって、胃の透視、CTスキャンなど、結果が出ると次の検査という段取りだったので二週間がかかった。最終の結論は、胃が多少胃下垂ぎみになってはいるものの異常というほどではなく、そのほかは普通の健康体であるとの診断だった。
 担当の内科医は、
「ふーむ、これは明らかに神経性のものだね。神経科への紹介状を書きますから、あらためてそちらで診てもらってください」
 所定の用紙になにやら書き連ねると、カルテや検査表一式といっしょに封筒に入れ、それを持って神経科外来にいくよう指示してきた。
「頭のどこもおかしくないわ。神経科なんかいけないわよ。もう帰りましょう」
「なに言ってるの。精神的なストレスを無意識のうちに身体のどこかが悪いことに置き換えてしまうのが、“転換ヒステリー”とかいう病気だって麻奈美が教えてくれたでしょう」
「そんなこといったって、私はキチガイ病ですって認めてしまうことになるのよ。いやだわ」
「あらあら、もと心療内科の看護婦がそんなこと言っていいの。神経科もきちんと私がついてってあげるから。ね、ほっといたらいつまた痛くなるかもしれないわよ」
 麻奈美は腕をとられ、しぶしぶ神経科外来の窓口に封筒を出した。

医師

 待つこと二十分、麻奈美の名前が呼ばれた。
「どうぞ、中へお入りください」
 診察室に入っていくと、それまで書類に首っ引きになっていた医師が麻奈美の顔を食い入るように見つめてきた。
「やっぱり桜田さんでしたか。どうもお久しぶりです」
「はあ?」
「私ですよ。ほら一年半前、絶食でお世話になったじゃないですか」
 にこやかに笑みを浮かべて言う医師に、麻奈美は椅子にすわるのも忘れて見つめ返した。
「あ、村上さん。どうしてこんなところに。福島じゃなかったんですか?」
「ええ、話せば長くなるんですが・・。ま、とにかくすわってください」
 と言ってくるのとは反射的に、麻奈美は外に飛び出そうとした。
「はなしてください。帰ります」
「あのとき、僕にアドバイスしてくれたじゃないですか。病気から逃げたり、嫌がったりしたらだめだって。ね、すわってください」
 両肩を抱えられ説得されて、ようやく麻奈美は丸椅子に腰を下ろした。「ここはしばらくいいです。患者さんとじっくり話してみたいと思いますので」
 と、村上は看護婦を診察室から追いやると、奥からソファの椅子をもってきて、それにすわり直すように促した。
「反対になってしまいましたね」
 うなだれて言う麻奈美に、村上は苦笑し顔を近づけて言う。
「そうかもしれませんが、僕自身完治したわけではないんです。今でも月に一、二度、診察と勉強を兼ねて内山先生のところに通ってるんです。いいですか、誰にもないしょですよ」
 麻奈美の堅い表情がやっとくずれた。「あれから二ヵ月くらい、大学にもどって僕なりにがんばってみたんです。でも動物解剖でも指先の震えは治りませんでした。とてもとても恐くて人間の手術なんかできたものじゃありません。しょうがなくて、また仙台にきて内山先生の外来に通い始めたんです。病棟にも、何度も挨拶にいこうとは思ったんですが、やはり病気が治ってないままではみなさんに合わす顔がありません。正直いって、ほかの人はどうでもよかったんですけど桜田さんには会いたかったんですけどね」
「そんな・・」
 麻奈美の顔がほんのり赤く染まった。
「半年ほどたったところで、内山先生から外科医は諦めて内科系をやってみないかという話があったんです。内科ならメスを持つことはありませんし、せいぜい注射ぐらいですからね。それでここの神経科を紹介されて、働き始めたというわけなんです。自分で言うのもなんですけど、神経病で苦しんだ僕なら逆にいい神経科医になれると思うんです。どうです?」
「え、ええ・・」
「最近は薬でごまかしごまかしですが、やっと仕事に自信が持てるようになりましてね。二ヵ月前でしたか、桜田さんに会いたくて外来看護婦の氏家さんに連絡をとってもらうように頼んだんですよ。そしたらおかしな噂がたって、病院には居ずらくなって辞めたっていうじゃないですか。それは、もしかしたら僕が原因なんですか?」
「関係ありません」
「そうですか、それならいいんですが・・。国民健康保険になってますが、今は看護婦の仕事はやってないんですか?」
「・・・・・・」
 麻奈美は口を真一文字に結んだまま答えなかった。
「い、いや、僕も第一病院にいたときは途中までは言いませんでしたから偉そうに訊けた立場ではないんですが、ハハ」
 村上は頭をかいて視線をそらした。
「お水です」
「は、オミズ?」
 麻奈美の顔を探るように見た。
「水商売のことです。村上さんにやってあげたことを、今はそれを専門に仕事としてやってるんです」
「そ、そうでしたか」
 さすがに村上の驚きは隠せなかった。
「軽蔑したでしょう」
「いえ、そんなことはありません」
 村上はわざわざ胸を張って言った。
「もう、私なんかどうなったっていいんです」 と言うなり、麻奈美は机に伏せて泣いた。
「そんな捨鉢になったらいけません。だいじょうぶ、もう心配いりません」
 村上は椅子を前に引くと、麻奈美を自分の胸元に包みこんだ。
「必ず治してみせる、僕が主治医になったんだから」
 さらに口に含むようにして言った、「いつまでも」という言葉は麻奈美の耳に入ったようすはなかった。

完