1 招かざる客     その一

 金策が思うようにいかず、かといって会社にまっすぐ帰る気もせず、気の向くまま車を転がしているといつのまにか兄の家の近くにきていた。
 ドアを叩くと義姉が気だるそうに出てきた。
「はい。ああ、良次さん」
 義姉は戸惑いながら奥のほうを見やる。下を見ると、兄の家には似つかわしくないピカピカに磨かれた皮靴が並べてあった。
「お客さん?」
 義姉が困ったようすでうなづく。2DKとなれば、同時に二人の客を招き入れるような空間はない。
「じゃあ、またくるよ。別に用があってきたわけじゃないから」
 すると襖が開いて兄が顔を出し、食卓のテーブルを指差して言う。
「いいよ。すぐに終わると思うから、冷たいものでも飲んでて待っててくれや」
 そう言われれば帰るわけにもいかず、良次は義姉が引いてくれた椅子に腰を下ろした。
 襖の隙間からは背広の後ろ姿が見える。
「こんなことを申し上げたらなんですが、確かここは家賃がかかってないんですよねえ」
 兄夫婦の住む住宅は平屋建ての障害者用住宅で、家賃は無料なのである。
「お聞きしたところでは、生活のほうも福祉の世話になってるということですよねえ」
 襖の向こうからは、含んで言い聞かせるような男の言葉が響いてきていた。しかも襖一枚では声を減衰させることなく、目の前で話しているのと同じように聞こえてくる。人ごとながら大きなお世話だと思うが、兄のほうはなにを言い返すでもなく素直にうなづいている。
「どうぞ」
「ああ、どうも」
 義姉に男の正体を尋ねようと思ったが、オレンジジュースを入れたコップを良次の前に置くと目をつぶり、うつむいてしまった。
「それだけ世の中のお世話になってるんでしたら然るべきときには、それなりの恩返しをするのが人の道というものではないでしょうか。なにも生きているうちに、どうこうするというわけではないですからね」
「ええ、そう思ったからこそ資料を取り寄せてみる気にもなったんですけど今すぐといわれましてもねえ。まだ決心が固まっていないものですから、しばらく考える時間をもらえませんか」
「それはもちろんです。私がむりやり署名させたとあっては臓器提供者保護法に違反ということになってしまうんです。刑務所に入るようなことになってはかないませんからね、ハハ・・。自らの意志でドナーカードに署名していただいて、あとは肌身離さずもっておいていただければそれでけっこうなんです」
「はあ、わかりました。決心がついたら署名するようにしますので」
 良次にはなんの話しなのか、チンプンカンプンだった。
「そうですか。まあ、こういうことはいつなにがあるか、誰にもわからないことですからね。一日でも早いほうがそれだけ困っている方も助かると思いますから、そのへんのことをよくお考えいただけたらと思います。それじゃ、お客さんが見えられているようですからこれで」
 そう言ったかと思うと、すぐに襖が開いて四十代と思える身形のきちんとしたの男が現れた。
「どうも、おじゃましました」
 良次も慌てて立ち上がり挨拶する。
「いえ、どうも」
 義姉はと見ると、テーブルに頭をつくかつかないかぐらいにして、すっかり寝入ってしまっているようすだ。
「義姉さん」
 肩を引っ張って揺り動かすと、半眼ですっと立ち上がった。
「ごめんなさい」
「無理しなくていいから。そのままでいいよ」
 と、兄が良次の肩を突きながらやさしく言った。
「それじゃ、くれぐれもよろしくお願いします」
 男は目でも兄をジロッと見て出ていった。
「何者なんだ、あの男は?」
「うん、そっちにすわろうや」
 兄はすぐには答えようとせず、コタツにくるように促した。
「良次さん、ごめんなさい。私、薬を飲んだものだから目を開けているのもつらくて」
 横から義姉がとろんとした表情で言った。
「わかってるよ。気を遣わなくていいから布団に寝たら」
「悪いけどそうさしてもらうわね」
 義姉はそう言うと隣室に消えた。