1 招かざる客     その二

 兄も義姉も統合失調症で、抗精神薬を必要とする。服用していなければ幻聴や妄想を引き起こしかねないのだ。一方では服用すれば眠くなる。しかも並の眠り方では済まない。半日以上の睡眠時間を必要とするのだ。それでも症状は安定しておらず、当然仕事はできるわけもなく生活保護を受けて暮らしていた。
 元々二人は精神病院に入院中に知り合って結婚した。今は亡くなってしまった父も母も当時は大反対だった。精神障害者の二人がまともな結婚生活を送れるはずがないと考えるのは、むしろ自然なことで両親を責められはしなかった。良次にしても口にこそ出さなかったが考えは同じだった。しかも義姉は天涯孤独の身で、兄一人だけでも苦労させられていたものを二人の精神障害者を抱えることとなれば、なにをか曰んやだった。
 だが、そんな周囲の心配をよそに入院した病院のスタッフにも助けられ、この七年間平穏無事な日々を過ごしていた。ただ両親は長年の心労からか、それともすっかり安心してのことか、二年前続けざまにあの世へと旅立ってしまった。
「ほら、これさ」
 兄はそう言って、男のおいていった名刺を差し出した。
「財団法人・臓器移植センター。なんだ、これは?」
「脳死になったときのためにあらかじめ心臓を提供してくれる人を登録しておいたり、移植の際には提供者側と移植者側とのあいだに立ってコーディネート業務をするところさ」
「ああ、それでさっき臓器提供者保護法がどうのこうのとか言ってたのか」
「ドナー登録を強制すると、処罰の対象になるらしいな」
 “臓器提供者保護法”とは、医学的に脳死とされる状態から臓器を取り出してもよしとする細かな条件や、ドナー登録者を保護するためにその手続きの仕方や対象者の制限項目が盛りこまれている法律である。
 一ヶ月ほど前その法律が施行されたとき、評論家を自称する連中が新聞やテレビで賛否両論をにぎやかにくりひろげていたが、良次自身はさほど興味もなく、ぼんやり眺めていた程度に過ぎなかった。
「ふ〜ん。でも、そういうところのやつがどう兄貴と関係あるんだ?」
「この前小林先生がやってきたとき、心臓や肝臓疾患で命を落とす人が多勢いるっていう話しをするんだよ。それでドナーカードの話しをするもんだからさ。聞いているうちにそれもそうだなあと思ってさ。関心があるんだったら資料を送らせるようにしようかって言うもんだから、気軽にお願いしますって言っておいただんよ。それが直接やってきて、せっかくきたんだからこの場でサインだけでもしてくれないかっていうわけさ」
 兄は困惑の表情を浮かべて言った。
「さっきのは強制してるようなもんだぞ」
「細かい規定があってそれに触れなければいいんだろう。俺にはそんなことぐらいしかできないものなあ」
 淋しそうな目付きで、目をまばたかせながら言った。
 小林先生とは、元々はこの辺り一帯の大地主で市会議員をやっている人である。障害者には理解のある人で自ら世話役をかって出ている。ここの障害者用住宅の土地も無償で市に提供したという。もっとも世話役が過ぎて選挙のときには自分の経営する建設会社の社員を動員し、障害者用住宅の住人をマイクロバスを使って投票所まで送り迎えすることまでやっていた。
「小林先生も登録しているってか?」
「いや、それは聞かなかったけど、八重樫さんや浅岡さんもやってるっていうしな。奥山さんなんか、心臓以外にも角膜、腎臓、肝臓まで登録して、その上献体までするっていうからすごいよ」
 奥山さんとは二軒隣りに住む人で小さいときに脳性小児マヒにかかった、まったく身体の不自由な人のことである。
「じゃ、小林先生はみんなに言って歩いているんだ?」
「そうみたいだな。死んでからのことだからどうってことはないと思うんだけど、いきなりサインしてくれって言われてもなあ」
「そういうのは純粋に自分の意思で、善意でやるものさ。人に勧められてやるものじゃないよ。いやだったらはっきり断ればいいんだよ」
「でもなあ、あの調子じゃまたくるだろうしな。小林先生にまで連絡されて、どうのこうのって言われてもたまんないしなあ」
「なにも小林先生個人が金を出してるわけじゃないぞ。みんなの税金で福祉の予算が構成されてるんだから、そんなに気にすることはないさ」
「市議会でも医療関係のことには積極的に動いているらしいからな。世話になってるのも事実だし」
 そう言う兄の目は、いつのまにか充血して殺気だった目に変わっていた。
「具合い悪くなってきたんじゃないのか。きょうは薬は飲んだのか?」
「いや、これからさ」
「あんまりよけいなことは考えずに、ゆっくり寝るといいよ」
 当然のことながら、小林先生は兄の病気はなんであるかを知っている。にもかかわらずつまらぬことを勧めてくれたものだと思いながら、兄の家をあとにした。