1章  出会いとお邪魔虫と

(おっ、かわいい子だなあ!)
 なるべく音がたたないように、椅子を両手で静かに手前に引いて向かい側の席にすわったのは、セーラー服を着たおさげ髪の女子高生だった。彼女の制服は、この図書館からは比較的近くにあるT学園女子高校のもので、それほど程度の高い高校ではなかったが、セーラー服というだけで男子高校生には人気のある女子高だった。
 良次は彼女がどんな勉強を始めるのか気になり、顔は机に広げた数学の教科書とノートを向いてはいるものの、視線は上目使いに彼女の机にいっていた。注意深く見ていると、彼女は鞄の中から国語の教科書と一枚のプリントを取り出し、肘をついて交互に見比べ始めた。どうやら試験のテスト用紙のようで、終えた試験を見直している様子だった。良次の学校も明日からは実力テストがおこなわれるので、きょうは最後の仕上げのつもりで図書館の自習室にやってきたが、彼女の学校も今は試験の真っ最中のようだった。
 図書館にくれば勉強の能率が上がるというわけでもなかったが、家に閉じこもりっきりでやるよりは気分替えになってよかった。それに試験期の図書館には誰かしら知った顔がいて、勉強でわからないようなところがあるときは、お互いに教え合うことができるので、試験の何日か前になると図書館に足を運ぶのがすっかり習慣になっていた。それに三年になってからは大学の受験勉強のためもあって、学校の帰りはバイトのないときには必ず寄るようになっていた。
 つまらないことに神経がいってはと、気を取り直して数学の練習問題にかかるが、良次はどうにも前のセーラー服の子に気が散ってしまい、まともに勉強は手につかなくなってしまった。迷惑なようなうれしいような気分で、これ以上ここにいてもしょうがないと思い、きょうはほどほどのところで早めに切り上げることにした。
 それとなく周囲を見渡して見ると、五十人は下らない人が、なにかに取りつかれでもしたかのように机にしがみついていた。あらたまって自習室を眺めたことのなかった良次には、整然とした静けさが奇妙に感じ、またそれの裏返しに、セーラー服如き女の子に神経を惑われた自分が情けなくもあり、内心苦笑いの良次だった。
 机の上のものを整理して良次が帰るときにも、彼女は一心不乱にテストとにらめっこをしていたが、あまりテストの出来はよくなかったとみえ、ときおり溜息をついては小さな肩を落としていた。出口に向かいながら、チラッと後ろを振り返って見た。頭を真ん中から分け、両側に垂れた髪の後ろ姿もなかなかよかった。すっかり顔馴染みになった受け付けカウンターのおばさんにロッカーの鍵を渡すと、おばさんは意味ありげな目で良次をみつめニヤニヤ笑っていた。
(気づかれたのか。まさか・・・!?)
「あら、きょうは早いのね」
 いつも帰るのは早くても七時ぐらいなので、カウンターのおばさんには奇異に映ったらしかった。
 翌日の試験は、前日の図書館でのことが原因というわけではないが、五科目のうち、三科目はあまり感心した出来具合いではなかった。掃除当番を終え、みんなが帰ったあとの教室の中で、一人残って出来の悪い三つの問題用紙を再度眺め渡してみた。そのうち専門科目の二つは、大学の受験科目とは直接には関係がないので目を瞑るとしても、数学で解けない問題が多かったのが悔やまれた。良次は元来数学は好きなほうで、小学校からの通信表も4か5しかもらったことがなかったが、微分積分が入ってきてからは苦手になり、高校になってからの成績はいまひとつだった。
(この程度の成績じゃ、どこの大学も受からないな。初日からこんなことでは先が思いやられるなあ)
 良次の志望は文系で、数学を受験科目としている大学の文学部はどちらかといえば小数派だが、良次が受けようとしている大学は数学が含まれているので、それが頭痛のタネだった。
「よう、まだ残ってたのか」
 肩を揺らせながら教室に入ってきたのは、隣りのクラスの青柳だった。
 三年になってからクラスは別々になったものの中学時代からの同級生で、青柳は親友と思っているらしいのだが、良次としては、こういうのを腐れ縁というんだな、と思っていた。
「ああ、試験はどうだったよ」
「まあまあってとこだな。中でも数学はよくできたな」
 青柳は小馬鹿にした顔で良次の机を覗きこみながら、前の椅子に跨いでドカッとすわった。
「ま、数学が悪くてもトータルがよけりゃいいからな」
 二人の成績はお互いにいい勝負で、総合得点の星取り表では五分の星だったが、ここ二回は良次が勝っていた。青柳も進学組なのでいいライバルだった。

 二人の通う高校は市立のS工業高校で、実業高校なので当然進学する者よりも就職する者が多かった。それでも最近の進学熱の高まりから良次のクラスでも半数近くが進学希望で、大半は地元の工科系大学を目指していた。生徒たちのとりあえずの目標は学校推薦で進学することであり、そのためには模擬テストなどの成績より、学内の試験にいい成績を残す必要があった。
 工業高校の授業内容は、それぞれの学科に応じた専門課程があり、その分普通科目が削られ、教科書も普通高校が使う詳細に解説されたBではなく、より平易に記述されたAを使っていた。工業高校の生徒は初めからハンディを背負っているわけで、普通高校の生徒と対等に肩を並べての一般受験には、おのずと限界があった。
 また推薦入学の試験は、面接とか小論文だけの大学が多く、事実上の無試験といってもよく、これまで学校推薦で不合格となった者は一人もいなかった。つまり推薦入学は、百パーセント確実な進学方法で、それだけに学校推薦を受けられるのは学業優秀でなければならず、学校側では推薦の条件を大学側に対するあとあとの信用を配慮して、二年の三学期以降の成績が、平均で一学科あたり上位10番以内の者としていた。よって進学希望の中でもボーダーライン上にいる生徒たちは、学内試験のたびに成績表を見ては一喜一憂していた。
 良次も学校推薦はねらっていたが、そのボーダーラインぎりぎりのところをウロチョロしている生徒の一人で、推薦のことを考えれば専門科目もおろそかにはできなかった。だからといって推薦だけを目標にできる状況でもなく、一般受験を前提に勉強を進めざるをえなかった。青柳も似たようなもので、電気科の中で二人は抜きつ抜かれつの団子レースを演じており、張り合う気持ちが二人の勉強意欲を自然とかりたてていた。
「ふん、今度は俺がもらうよ。それよりこれから図書館にいくつもりだけど、いっしょにいかないか」
「ああ、いいよ。俺も寄るつもりだったんだ。昨日もいったんだけど、前にすわった子はT学園のかわいい子だったぞ」
「へえー、知り合いになったのか?」
 青柳は身を乗り出すようにして、机に覆い被さってきた。
「ただ見つけただけのことさ」
「そうだよな。おまえがそんな器用なことをするわけないものな。よし、俺に任しとけ。俺の女にしてやるから」(ナヌッ・・・・!)
 良次が、女がどうのこうのと言ってはみても、所詮口先だけのことでナンパなどできはしなかったが、青柳の場合は軽く実行に移してしまうので冗談には聞き流せなかった。青柳のそんなところが腹立たしかったが、一方ではうらやましくもあった。ナンパ自体をいやらしく思っているわけではなく、良次もやってみたいのだが、実際に行動をとる勇気はなかった。
「おまえな、変な気を起こすなよな。俺の・・」
「彼女だって言いたいのか、ただ見たってだけで。まあ、とにかく見せてみろ。おまえのかわいいってのはあまりあてにならないからなあ。タイプじゃなかったら、俺が知り合いになった上でおまえに紹介してやるよ。そのほうがいいだろう。どうせ、おまえだけじゃ指をくわえて見ているだけなんだから」
 青柳がポンポン繰り出す言葉は、良次の胸の内をむかつけせたが、いちいち的を得ているので、良次は黙ったまま反論することができなかった。「おい、早くいこうや。勉強する時間がなくなるぞ」
 青柳は席を立ち、良次の袖を引っ張ってせわしく駆り立てた。
(なにを勉強するんだか・・・・)
 しかたなく良次もつられるように腰を浮かしたが、こうなるとなんのために図書館にいくのか、わからなくなってしまった。昨日みたいに彼女が目の前にきたら、また勉強が手につかなくなってしまうし、かといって会いたい気持ちもあるしで、良次は複雑な心境で学校を出た。