9 涙が語るもの

 子どもが生まれてから三ヶ月が過ぎた。仕事が一段落ついて時間があいたこともあり、役所に出向いて戸籍謄本をとって見たが、香奈子の籍は入ったままになっていた。
 今井はそのまま市内の中心部へ向かって車を走らせ、市役所近くの有料駐車場に入れた。一番町の通りをカメラは持ってこなかったので意味もなく、ただブラブラと歩き香奈子が勤める店の前まできた。
 離れたところからそれとなく覗いて見るが、ショーウィンドウのガラスが反射して中がよく見えない。人がいるのだけはわかるのだが香奈子かどうかまではわからなかった。女性専門のブティックだけに男が入るのはどうにも気が引け、心なしかうつむき加減になって入っていく。
「あら、いらっしゃい」
 うまい具合に経営者の女性が立っていた。
「この前はどうも。香奈子、いたらちょっとだけお願いしたいのですが」
「ええ、お待ちください」
 奥に入ったかと思うと、すぐ香奈子が硬い表情で出てきた。その背後から経営者の女性が笑みを浮かべながら、
「きょうは閑だし、ゆっくりしてきてください」
 と、香奈子よりも今井に向かって言ってくるのだった。
 香奈子はそれを振り返るように見ながら店を出ると、なおのこと疑わしい表情で聞いてくる。
「おばちゃんのこと知ってるの?」
「二週間前にいっしょに飲んだんだよ。香奈子の本心が知りたくてさ」
「私の本心てなによ!」
「まあ、喫茶店にでも入ってじっくり話そうや」
「おばちゃんもおばちゃんだけど、私に内緒で会うなんてどういうこと? だいたいにして約束したこと忘れたの」
 出産してから二日後子どもの顔を見に病院へいったが、その日を最後に一切赤の他人になるという申し合わせを指していた。
 そのときの香奈子も最初は笑顔で迎えてくれたものの、その話が終わったあとは冷たい態度だった。子どもを抱かせてくれるよう頼んでみたら断られ、よその子どもをいつまで見たところでしょうがないだろうとの理由で十分とせずに帰るように言ってきたのだ。さらに帰り際キスをして別れようとしたら、頬をピシャリとやられてしまった。
 さらにあろうことか部屋を出るところへ診療時間中でこないはずの母親が突然現れて散々詰め寄られ、香奈子がどうにか取り繕いをしてくれて這々の体で病室をあとにしたのだった。

喫茶店

 横の通りに入り、小さな喫茶店に入った。
「戸籍、どうしたんだ。調べてみたらまだ離婚になってないぞ」
「子育てと仕事に忙しいの。お父さんの世話だってあるし私自身も病院通いをしてるし、なかなか時間がとれないのよ。いつでもいけるように持ち歩いてるけど。今井さんこそ早くいって出してきたらいいでしょう」
「そりゃまあ、そうなんだけどな。友裕は元気かい?」
「病気もせずに順調に育ってるわ。ミルクもいっぱい・・」
 ふと思いだしたように言葉を切り、「今井さんには関係ないでしょ」
 と、投げやりな調子で言った。
「聞いてみるぐらい、いいじゃないか。俺の子どもなんだからさ」
「それは仮りの話で・・」
「調べたんだ!」
 つい、大きな声を張り上げてしまった。他の客や従業員の視線が集中してきたが、身をかがめ声を細めにして話を続ける。「出産予定日を逆算したら、香奈子と最初にエッチした日とほぼ重なるんだよ。セックスしたときのようすもおかしかったし、先生にエイズ検査を薦められたとき、ついでにDNA鑑定をしてもらったのさ。そしたらまちがいなく俺の子どもだった」
 香奈子の身体全体がビクンと動きはしたが、下を向いたままだった。
「感染の方は香奈子が気遣ってくれたおかげでなんでもなかったよ。はじめは香奈子がエイズに感染しているのを知っておきながら俺とエッチしたことには腹がたったけどな」
「ごめんなさい」
 蚊の鳴くような声だった。
「いろいろ考えてみてわからなかったことが一つある。生まれてくる子どもも感染するかもしれないというのに十八の、いや、あのときは十七か。その若さで注射器まで使って妊娠して子どもを欲しがる理由さ。発症したら子どもを成人まで育てられないかもしれない。ただのわがままでそこまでやれないだろう」
「・・・・・・」
「両親に対する恩返しのつもりなのか」
「今井さんには関係ないって言ったでしょ」
 少しだけ顔を上げ、上目遣いに睨んでくるのだった。
 話はそこで続かなくなり、あとには今井が吸うタバコの煙だけが二人のあいだをさまよった。二本目、三本目となったとき、今井が重い口を開く。
「香奈子、俺のマンションでいっしょに暮らさないか」
「なに言ってるの?」
「籍はそのままにして、ほんとに結婚しないかと言ってるんだよ」
 目を丸くした顔が真っ赤になり、ハンカチを握りしめた両手が小刻みに震えている。頭をまた下げて背を丸め、それこそテーブルにくっついてしまうぐらいに小さくなった。「お父さんが心配なら仕事を辞めてマンションから通ったらいいさ。離婚届、出してみろよ」
 膝の上のハンドバッグごと取ろうとしたが、上から両手で押さえつけてあった。今度は横から抜いてみる。するりと抜けた。
 中から離婚届を取り出し、今井が持ってきた離婚届とを重ねて丸め、ライターで火を付けると、二通の離婚届はみるみるうちに灰皿の中で燃え上がった。
「私、お薬はきちんと飲んでるからしばらくは大丈夫だと思うけど、それにしたって発症する可能性はあるのよ」
「だから跡継ぎを残すのに急ぐ必要があったってことだな。エイズのことはおよそのところは勉強したさ。よけいな心配はしなくていいよ」
 香奈子の顔の真下のテーブルの上に、ひと粒の涙がしたたり落ちた。