8 舞の本心

 佐智子の三回忌の法事が滞りなく済んだ三日後、今井は引っ越し作業に汗を流していた。ほとんどの荷物は運送屋に頼んで既に運び出し、あとには自分で運ぶことにしていたカメラ関係の機材と、処分してもらう予定でおいていく古くなった机とソファだけが残っていた。
 そのカメラ機材を肩に部屋を出ようとしたとき、ふさぐように舞が立っていた。
「さあ、下でお茶でもごちそうになってから失礼するよ」
 その言葉が耳に入らぬかのように部屋の中に入ってくると、それまで開けっ放しにしてあったドアを閉めた。さっきまでTシャツとジーパン姿で手伝ってくれていた舞だが、いまは首周りが大きく出ているリゾートウェアに身を包んでいた。
「カメラはあるんでしょう。記念に写真を撮ってほしいの」
「ふむ、そうだな。最近は舞ちゃんの写真はほとんど撮ってないものな」
「最近どころじゃないわ。結婚したてのまだわたしが高校生のときだけよ。それも制服を着てるときだけだったわ」
「そ、そうだったか。アハハ、昔のことだからなあ」
 バツの悪さに後ろ向きになると、カメラバッグからいちばん愛用している一眼レフカメラを取り出した。
 再び舞の方を向いたときだ。そこにはリゾートウェアをほとんど脱ぎかかってる舞の姿があった。しかも下にはなにも身につけていなかったのだ。
「なにやってるんだよ!」
「お兄さんが撮るのはヌード写真だけでしょう」
「普通のポートレートだって撮るよ。とにかく服を着なよ」
「いいの、早く撮って。おねえちゃんだって、他の女の子のだっていっぱい撮ってるじゃない。そこにあったの見たもん」
 指さした先には、カメラとフィルムやプリント類を入れてキャビネットが置かれてあった。
「それじゃ佐智子のヌード写真は佐智子が見せたんじゃなくて、舞ちゃんが勝手に見たのか?」
「ごめんなさい」
 本心で謝っている風ではなく、むしろ怒っている顔だった。一度血の気がさっーと引いたあと、今度は身体中が燃えるように熱くなった。
 しかたなくカメラをかまえるが、レンズがぶれてなかなかシャッターが切れない。
「どうしたの。ただ立ってるだけじゃつまんないの」
「いや、それでいいよ。ちょっと待って。せっかくだから大きいフィルムで撮ってあげるよ」
 一眼レフから二眼レフのカメラに変えるが、フィルムのセットがこれまた手が震えてうまく収められない。どうにか装填したものの、やはりシャッターは押せなかった。
「わかったわ。お兄さんの撮りやすいようにする」
 舞はソファに腰を下ろすとエマニエル夫人がやったように、両足を肘掛けにのせて開いた。
「そんなことしなくたっていいって」
「こういうポーズをとってる写真がいっぱいあったわ。撮ってよ。どんなポーズでもとるから」
「そうじゃない。舞ちゃんのそんな写真は撮れないんだ」
「どうしてよ。他の子なら撮ってるのに」
 舞を正視できず、カメラに視線を落としていると突然ドアが開いた。
「お昼の用意ができ・・。キャッ!」
 義母だった。「これから嫁にいこうという娘になんてことするの。血が繋がってなくたって妹でしょう。いったいなにを考えてるの」
 カメラを片づける間もなく、カメラバッグを肩にかけると逃げるようにして部屋を出る。
「お母さんのバカ!」
「なに言ってるの。早く服を着なさい」
 階段を下りると義父が待ち受けていた。
「長いあいだお世話になりました」
 振り返りもせず、車に飛び乗ると脱兎の如く家を出た。
 車はマンションには向かず、香奈子が入院している病院に走っていった。胎児が逆子になっているとの理由でまだ予定日までには間があったが、母子の安全上帝王切開で出産するため、一昨日から入院していた。
 香奈子はすっかり大きくなったお腹とのバランスをとるためか、必要以上に胸を張る格好でノートパソコンに向かっていた。
「きてくれたの。ありがとう」
「インターネットをやってたのか」
「いえ、日記を書いてたの。目が赤いけど、どうしたの?」
「ああ、引っ越しだったから朝早く起きたもので寝不足なのさ」
 と言ったあとに、何度か目をこすってみせた。
「そうだ、これ見てよ」
 ベッド元の名札には『今井香奈子』と記されてあった。
「なんというか、妙な気分だなあ」
 あれからよくよく考えた上で、一度結婚している気楽さもあったのだろうが香奈子の要望に応じる決断をした。報酬は写真を撮らせてもらうということで百万円は返そうとしたが、香奈子がそれはそれ、これはこれということで頑として受けとろうとしなかった。
 マンションを借りた翌日にはその住所で籍を入れていた。
「まさか離婚届を出したりしてないでしょうね?」
 小悪魔的な薄笑いで訊いてきた。
「そんなことはしてないよ」
「それならいいんだけど、もし約束を破るようなことがあったら青少年保護条例違反で警察に告発することになるかもよ。日付の入った証拠写真もあるしね。なにしろこのときはまだ十七だったしぃー」
 ハンドバッグから一枚の写真を今井が座っているベッドに取り出して見せる。それには香奈子が通っていた女子校の制服を上だけ着た、下はすっぽんぽんのあられもない姿が写っていた。
「ほんとにもう、嘘八百を並べて。仮とはいえ亭主を刑務所に入れたくはないだろうが」
「くっ、くっ、くっ」
 香奈子は声をかみ殺すようにしながらお腹を抱え、笑いこけた。
「今井さん。あ、ご主人ですか。診察ですので診察室まできてください」
 看護婦だった。今井は即座に写真をポケットに押しやった。
「はい、すぐいきます。それからねえ、赤ちゃんの名前に今井さんの“祐”の字をもらってもいいかしら。あとあと戸籍を見て父親と一字だけでも同じであれば、いかにもほんとの父親らしく見えると思うのね」
「別にかまわないよ。それでなんて名前にするんだい?」
「父の友雄の“友”と組み合わせて“ともひろ”というのはどうかしら」
「なんか照れくさい気もするけど、いいと思うよ」
「よかった。二、三十分でもどるから待っててね」
 満足そうな笑顔を残し、狸の親玉みたいなスタイルで廊下に出ていった。
 ただ待っているのもたいくつなのでパソコンのスイッチを入れてみる。一分ほどでWindows98が立ち上がり、デスクトップ上には左側に十個ほどのアイコンがならんだが、右端に一個だけネットスケープコミュニケーターのショートカットアイコンがあった。気になってダブルクリックしてみるとブラウザが立ち上がり、プロバイダに自動接続の設定がしてあるらしく同時に“ダイヤルアップ接続”のウィンドウも開いて“接続中”と表示された。
 パソコンの後ろ側を覗いてみると電話線が延び、壁のモジュラージャックに差してあった。

ノートパソコン

 接続が完了したあと、ブラウザ上には個人が開設しているチャットのページが表示された。バックカラーが淡いピンクで仕上げられたページはどこか見覚えがあった。しかもクッキー機能で名前記入欄に残っているハンドルにも記憶があった。
「三毛猫?」
 慌ててページを新しいものから古いものへ順に追いかけていく。一ヶ月も前の数十ページもいったところで三毛猫と別のメンバーの会話が残っていた。その内容は三毛猫が一年ほど前からエイズに感染していることをカミングアウトして・・・。いや、匿名表示でのことだからそうは呼ばないと思うが、とにかくエイズ感染者であることを告げている内容だった。
 それ以来、三毛猫が自ら十代であることを教えていたこともあって、そのチャットページではすっかり人気者になってしまった。今井も二、三度励ましの言葉を送ったことがあったが、まさか香奈子だとは夢にも思わなかった。
「世間もインターネットの世界も広いようで狭いなあ」
 苦笑交じりのうちに“スタート”“Windowsの終了”をクリックし電源を落とそうとしたとき、感染したのが一年前という記述が薄暗くなった画面の中からスポットライトで照らし出されたかのように目についた。
 最初香奈子と出会ってセックスしてから、まだ一年とたっていない。ならばその後のセックスも含めてすべて感染している状態で今井とセックスしていたことになる。
「なんてヤツだ!」
 スイッチを切って電源を落としてしまうと、すぐに病室を出た。玄関口でさっきの看護婦が声をかけてくる。
「もうお帰りですか。先生ができればご主人ともお話したいと言ってるんですけど」
「またきますから、そのときにお願いします」
 車にもどり、一服つけながらもう一度よく考えてみる。
香奈子は今井と会うのにエイズ検査することを条件にしてきたが、香奈子自身が感染しているのだから常識的にはそんな必要はないはずだ。いまになって思えばセックスのときの行為も奇妙だった。
「まさか?」
 車を降りると再度病院にいき、さっきの看護婦を探した。「やはり先生の話を聞きたいと思うんですけど、取り次いでもらえませんか」
「ちょうど奥さんが終わったところですから、こちらにどうぞ」
 看護婦は診察室のドアをちょっとだけ開け、医師の都合を確かめてから中に入るよう促してくる。
「奥さんは気をつけてるから大丈夫とは言ってるんですが、念のためご主人も血液検査をして確かめておいた方がいいんじゃないかと思いましてね。どちらであるにせよ、子育てをなさっていく上でも夫婦生活においてもそれなりの対処法がありますからね」
「エイズのことですね」
「ええ、ご存じですよね?」
 医師は幾分驚いた様相で聞き返してきた。
「もちろん知ってます」
 内心は医師以上にショックだったが、平然とした態度で言った。「それで胎児にも感染してるんでしょうか」
「二度検査しましたが大丈夫です。出産も感染しないよう帝王切開でやりますので百パーセントではありませんが、まず心配していただかなくてけっこうです」
「逆子だから帝王切開するんじゃないんですか?」
「いえ、逆子ではありません。通常の分娩ですと出産の際、母体の出血にまみれて感染する可能性が高いのですが、帝王切開ですとこちらできちんと管理した上で出産させますので、感染する確率をずっと小さくさせることができるわけです」
「そういうことでしたか。それで私の血液検査をする際、胎児と私のDNA検査をして私の子どもであることを確認していただけないでしょうか」
 それまで笑みを浮かべながら話をしていた医師だったが、額に青筋を浮かべ今井の顔を凝視してくるのだった。
 視線を机の上に落とすまでのあいだ、ほんの数秒だったと思うがとても長い時間に感じられた。
「あんなかわいい奥さんなんですから、信用なさってあげたらいかがですか」
「もちろん信じてはいますが、念のためということです。費用はどんなにかかってもけっこうですから香奈子には内緒で、ぜひお願いします」
 医師は背を向け、しばらく机の表面をボールペンでカタカタいわせたあと、
「本来ならそういうことはお断りしてるんですが、今回は特別なケースとして処理しましょう。エイズ検査の結果は明日にでもわかりますが、DNA検査は一ヶ月近くかかります」
 看護婦に血液採取を促すと、医師は今井のお礼の言葉に応えることもなく、白衣の長い裾をひるがえし診察室から出ていった。