1 珍入者

 男はいくぶん酒が回って足がふらついてはいるものの、しっかりした目つきで周囲を見渡した。誰もいないことを確かめると、男の身長とほぼ同じ高さの金網をよじ登り始める。いつものことなのでこなれた手取り足取りで金網の上を跨ぎ、向こう側に降りた。
 沼に下っていく緩やかな斜面の茂みの中に段ボールの家を作り、住み始めて三年になるが、つい半年前ではこんな金網はなかった。沼に魚取りにきた小学低学年の男の子が深みにはまって溺死したのをきっかけに金網が張り巡らされてしまった。男にとってはこの上なく迷惑なことだった。
 楽しみといったら仕事を終えて、一合のカップ酒を二、三本あおることだけなのだが、あまり飲み過ぎると金網を登れなくなってしまうのだ。しかたなく、家に帰るまでは一本だけとし、残りは家でちびりちびりやるのが習慣になっていた。
 一方でタチの悪いガキどもも近づかなくなったので、段ボールの家を壊される心配もなくなった。近辺にはまだ数えるほどの民家しかなかったが、気味悪がって何度かおまわりまで呼ばれて立ち退くよう言われたが、事故があってからは一切どうこう言ってくることはなくなった。
「子どもさんが沼に入ったのを見つけたら、すぐに連絡くださいね」
 とは、金網を張る工事が終わった直後に近くの交番のおまわりが言ってきたことである。どうやら監視員にされてしまったらしいのだが、それでうるさいことを言われないのであれば無給とはいえ楽な仕事だった。
 それでも口のうるさい奴に見つかると、
「そこでなにやってんだよ。汚えやつだなあ。生まれてこの方風呂に入ったことねえんじゃねえか。おまえみたいなやつが、おかしな犯罪やったりするんだよなあ。たく、どうしようもねえな」
 まあ、口だけならまだいい。蹴飛ばしてきたり物をぶつけてくる輩もいるから、金網を乗り越えるときは要注意だった。
 男は家の前までくると横の切り株に腰を下ろし、バッグの中からカップ酒を取り出した。
「ふっー、労働のあとの一杯は最高だな。うはは」
 ひとり満足気に笑った。とそのとき、家の奥でなにやらごそっと音がした。
「誰かいるのか?」
 ドア代わりの上から垂らしてあるビニールをよけてみたが、なにも見えなかった。もとより盗むようなものは何もありはしないから、泥棒など入るわけもない。
「ふん、ネズミか野良猫だな」
 男は身を屈め、四つん這いになって中に入っていく。広さは二畳ほどあるが、高さが一メートルちょっとしかないので、ごろり横になる格好か、上半身を起こしているのがせいいっぱいだった。
 懐中電灯を手にし、奥を照らした。
「なんだあ、白鳥か。おめえ、そんなとこでなにしてんだよ?」
 少しばかりの衣類を積み重ねた陰に白鳥が身を横たえていたのだ。
 沼には毎年ほんの数羽だけ飛来してくる。なんでも聞いたところによると、沼が小さすぎて舞い降りるのはいいとして、飛び立つのがむずかしいのだそうだ。だから滑空距離が短くても飛び立てる元気のいい若鳥だけが越冬にやってくる、という話しだなのだが、その中の一羽なのだろう。

小さな沼

 白鳥が立ち上がったとき、右足の臑あたりが血に染まっているのが見えた。
「あっ、怪我してんのか」
 右足に力が入らないとみえて半分引きづるようにし、体を左右に揺らしながら外に出ていこうとする。
「無理しなくていいさ。そんな格好で出ていったら野良犬にやられるぞ。治るまでいていいよ」
 わかったのかどうか、白鳥は段ボールの縁までくると座り込んだ。
「どら、傷はどんなんだ?」
「グァー!」
 ふさふさの羽をどけて足元を見ようとすると、口を開けて威嚇してくる。
「心配するな。鴨だったらどうかしれないが、白鳥を食べたりはしないさ」
 よくよく見ると木か竹などの折れた突端の部分で切ったものか、数センチの切り傷があった。男は酒を口に含むと傷口に吹いてやった。
「ガァ、ガァ・・」
「いてて。消毒と傷薬の代わりさ。なあに、この二、三日は暖かくなってきたからじっとしてれば治るさ。いや、白鳥は暖かくなってきたらこそ早く帰らねえといけねえのか。ややこしいもんだな」
「クゥ〜」
 男はどんぶりに水筒代わりのペットボトルに入れてある水を入れ、いつも段ボール箱を集めて廻っている仕出屋でもらった残り物の弁当を広げた。
「さ、食うもん食って元気つけねえとな」
 だが白鳥は水を二口ほど飲んだだけで食物は一切口にせず、ひょこひょこ元いた場所に収まった。
「口に合ねえかな。まあ、食いたくなったら食えばいいさ」
 カップ酒の残りを飲み干すと、男は靴をぬいで奥に入り込み体を横たえた。
「ところでおめえはオスか。それともメスか?」
 と言うなり、白鳥の股のあいだに手を入れてもぞもぞやった。
「ギャッ!」
 白鳥は首をめいっぱい後ろにのけ反らせたかと思うと、あらん限りの力で男の頭に一撃を加えた。
「いてえなあ。なにも本気で突ついてくるこたあ、ねえだろうや。どうやらチンチンはなさそうだし、それだけ怒るところをみるとメスのようだな。ハハ、ひと安心だよ。男どおしが寄り添って寝るっていうのはもうひとつだからな」
 白鳥は後ろの段ボールの壁ぞいに身を引いたまま、睨みつけている。
「心配すんな。俺にそういう趣味はねえよ。昔な、ストリップで獣姦ショーってのを見たことがあるんだよ。女がバックスタイルでオス犬のでっかいのを入れてさ。あはんあはん、やってるわけよ。当人だけでなく、客も興奮してなあ。めん玉ひん剥いて口を開けて見入ってるわけよ。よだれを垂らしてる奴もいたなあ。俺は全然だめでなあ。あんなもん、何がおもしれえんだかな」
 それでも白鳥は上目遣いに睨みつけたままだった。
「さあて、朝が早いから寝るぞ」
 飲食店や会社から出る段ボールを集め、業者に売るのを糧にしている。さらに仕事場にしている繁華街は三キロほど離れているので、そこに出向くだけで一時間かかるため、夕方明るいうちに寝付くのが男の生活習慣だった。
「ほら、こっちにこいよ」
 毛布を掛けてやる仕種をしても動こうとはしなかったが、半分寝入ったころに
「うん、ああ・・」
 男の首元にぴったり身を寄せてきた。