1 近道の災い

「あ、雪がちらついてきた」
「そうね。積もったら歩けなくなるから急ぐわよ」
「だいじょぶだよ。お父さんが雪かきしてくれるから」
 つばきが屈託のない笑顔で言った。
「ふふ、そうね。でもこの分じゃお父さん、帰ってこれないわね」
 父は冬場の農閑期には自宅から二キロほど離れた道路管理事務所で除雪車を運転している。いつ雪が降るかわからないので、ほとんど事務所に泊まり込みの体制となっていた。
 一方で一栄自身も村には中学校がないため隣町の中学校に通っていたが、冬場は自転車通学ができる状況ではないので他の数人といっしょに寄宿舎生活を送っている。祖父母も既に亡くなっていたのであとにはつばき一人残されてしまうのだが、近所のおばさんが預かってくれていた。
 つばきは今年小学生になったこともあってぐずるようなことはなくなったが、去年までは大変だった。というのも母がいなくなってからは祖母が母親代わりとなったが、その祖母も三年前に亡くなり、あとは一栄が母親代わりだった。おばあちゃん子のつばきは祖母が亡くなってしばらくは毎晩泣きながら眠りについていたが、一栄が中学に上がって寄宿舎へ出ていくときには泣き叫び、しがみついて離れようとしなかった。
 そんなことで冬は家族がばらばらとなっていたが、日曜だけは努力目標として集まることにしていた。父は仕事の手が空いたときには一栄を送り迎えしてくれたりしていたが、昨日は金曜日ということで夕方つばきを寄宿舎に遊びにこさせにきた。
 おかげできょうの授業は散々だった。というのも部屋に一人つばきを残していくわけにもいかないので、机を並べて一栄の隣で授業を受けさせていたのだ。小一のつばきがおとなしく座っているわけはなく、奇声を張り上げたり先生にとんでもない質問をしたりでおよそ授業にならなかった。
「おねえちゃん、雪が強くなってきたのにお父さんの車こないね」
「そのうちくるわよ。心配しないの」
 ちなみに一栄は自分の名前がどうしても好きになれない。この地方では子どもの名前は祖父が付ける慣習となっているのだが、村と家が第一に栄えるようにとの想いで男の子が生まれてくるのを前提に考えていたのだという。女の子とわかってからも発音が“かずえ”となるのでそのままでいいだろうとの判断だったらしいのだ。
 母は椿の花が好きでお下げの根本によく結わえてくれた。つばきの名は祖父が考えていたものを無視して、母がそれだけは強引に押し切って椿からとって付けた名前だった。
 その母がいなくなって早七年、家出なのか事故や事件に巻き込まれてしまったものなのか、生きているのか死んでいるのかもようとしてわからなかった。
 父が若いころ、地元のスキー場でインストラクターをやっていたときに遊びにきていた母と知り合い、数年後に嫁いできたという。都会育ちの母が寒村の風習に合わせて生きていくのは想像以上に辛いものだったようだ。
 祖母とも折り合いが悪く何度も祖母から怒鳴られなじられるのを見ている。一栄に対してはやさしいおばあちゃんだったが、そんなときには鬼のように思えるのだった。
 そういうことが原因なのかどうかはいまの一栄にはまだよくわからなかったが、夜中に悲鳴を上げ外に飛び出していったり、畑にしゃがみこんだまま何時間もぼっーとしていたりとか、幼心に母が普通の人ではなくなっていくことが目に見えてわかった。

雪山

 つばきを産んでの数ヶ月後、一栄がまだ小学低学年のとき、季節もちょうどこの頃のことだった。朝起きると母の姿がなくなっていた。祖母は「他に男ができて出ていったんじゃろう。金目の物も消えてんじゃろ」と憎まれ口をたたいたが、なくなったものはなにもなく、着の身着のままで忽然と消えてしまったのだ。
 目撃者は誰もなく一週間のあいだ村中をあげて山狩りなどをして捜索したが、なんの手がかりすらも得られなかった。結局、山の中深く入って首でも吊ったのだろうというのが結論というか村中の噂だった。
 父はそれからも毎年雪が溶け始めて田植えをするまでと稲刈りを終えたあとのそれぞれ二週間ぐらい、猟銃を肩に狩りを兼ねて母を捜しに山に入っている。戻ってくる度に捜しにいっていること自体に満足感があるのか、「今回もだめだったなあ」と笑顔で語るのだった。猟を兼ねてとはいっても、一度たりとも獲物を持って帰ったことはなかった。
「おねえちゃん、前が見ずらくなってきたよ」
「そうね、車が通りかかったら乗せてもらいましょう」
 きょうの天気予報では快晴だったのでのんびり十キロの道を歩いて帰ることにしたのだが、山間の天気は急激に変わるのがめずらしくない。まだ二、三キロきただけなので、一栄自身も徐々に不安が募っていった。
 ついていないときはついていないもので、通りかかる車も皆無だった。
「よし、近道しよう。おねえちゃんが付いてるんだからだいじょぶよ」
 ぐずるつばきをなだめながら車道を外れ、峠を越えて村に通じている山あいの道に入っていく。そのあいだにも吹雪は強さを増して視界は十メーターにも満たなくなり、陽も落ち始めてきた。
「ここで死んじゃうの?」
「縁起でもないこと言うんじゃないの。さ、おぶってあげるから変な弱気を出すんじゃないよ」
「うん」
 それから一時間ほど歩いたが、そろそろ見えていいはずの村外れにある小屋が見えてこない。獣道とさほど変わらない山道は雪を被ると周囲と区別がつかなくなる。どうやら方向感覚が鈍くなってしまい、道に迷ってしまったようだ。
 やむを得ず一時しのぎができそうな大木や洞穴がないかを見渡してみるが、なにしろまともな視界が得られないので探しようもなかった。