2 病院の地下室

 それから一時間ほどは整理ダンスの拭きそうじなどをして、佐々木が呼んでくるのを待ってはいたが、終いには多少は気になりはしたものの上階の部屋にもどった。
 と、主が着くのを待っていたかのように電話のベルが鳴り響く。
「猫の手サービスですが。やあー、しばらくだなあ」
 新潟市で便利屋を営んでいる高校時代の友人からだった。
 受けた仕事がアマチュア無線のアンテナを屋根の上に建てるということで、そのやり方を教えてほしいという電話だった。三階建てのマンションで借り主が高いところはまったく苦手で、説明書を読めば誰にでもわかるからぜひやってくれ、と依頼されたのだという。
 もともと便利屋を始めたのは彼の影響によるもので、サラリーマンを辞めて実家でぶらぶらしていたとき、新潟よりもむしろ東京の方がどんなことでも仕事になるはずだからやってみたらいい、と勧められてのことだった。結果的には彼の言うとおりで、はじめのうちは仕事をとるのに四苦八苦していたが、一年が経過したころには仕事の量も売上げも彼の事務所よりずっと多くなっていた。
 世間話も交えて三十分も話が弾んだあと受話器をおくと、それを待ちわびたかのように再度ベルが鳴る。
「はあい」
 機嫌よく、張りのある大声で叫ぶようにして言った。
「・・・・・・・・」
 ところがなんの音沙汰もない。もう一度「もしもし」と呼び掛けてみても、受話口のスピーカーは一切音声を発することはなかった。
 こんな無言電話はときどきある。もちろん中にはイタズラ電話もあるのだが、だいたいは小学生や中学生が電話をかけてきて、なかなか第一声を出せずにいるのだ。だからこんなときは、半分はイタズラ電話だろうとは思いながら、できるだけていねいに応対するようにしていた。
「どちらさまでしょうか、猫の手サービスですが」
 失くした物を探してほしいとか、学校を休みたいので父親の代わりになって学校に電話してほしいとか、とにかく便利屋だけに常識では考えつかないような依頼がある。萩野の方針として、十八歳未満の子の依頼に関しては親の承諾がなければ受け付けないようにしていた。
「どこの誰か知らないけど、あんまりヒマなことをやってくれるなよ」
 と、いら立ちまぎれに言い放って受話器をおこうとすると、電話の主はぼそり言うのだった。
「研二さん、わたし」
「はん?」
 名前までいってくるとは手のこんだことをやってくれると妙な感心をしながら言ったが、どこかで聞いたような声だ。「ああ、美圭か。どうした、なんかあったのか?」
 これまでは苗字でしか呼ばれたことがなかったので、少々面食らった。
「お父さんが、お父さんが大変なの」
 そのわりには不気味なほど静まりかえった美圭の声が、よけいに不安をかきたてた。
「大変って、どうしたんだ?」
「交通事故にあって駒沢のK病院にいるの」
 しばし萩野は、唾を飲みこんだまま言うべき言葉を見失った。すっーと血の気が引き軽い目まいが襲う。もう一度唾をごくりと飲みこみ、吐息をつくのといっしょに言葉も吐く。
「わかった、すぐにいくよ」
 美圭の返事を聞く間もなく受話器をおくと、萩野は気忙しく車に乗りこんだ。
 それは脳裏をよぎらないではなかったのだが、毎日通い慣れた道路で、しかも堅い性格の佐々木が交通事故を起こすというのはどうしても考えにくかった。いや、考えたくなかったといった方が正しいかもしれない。「了解」の一言を残し、なんの連絡もしてこないというのにはいやな予感はしていたのだが、まさか的中してしまうとは・・・。
 高ぶった気持ちと、それとは正反対のどうしようもない不安感とが全身を小刻みに震えさせる。アクセルを踏む足がガクガクしてペダルを同じ位置に固定できず、ピストンの回転数が一定しない。それにつれてエンジンも、斑のある「ブーン、ブーン」との呻き声にも似た音を響かせていた。
 ときおり踏むブレーキペダルも、心なしか力が乏しいような気がする。こんなときに事故でも起こしようものなら、それこそいい笑いものだ。萩野はいざというときのために、左手でしっかりサイドブレーキを握っていた。
 車はおぼつかない足どり、いやタイヤどりでK病院の駐車場に入っていった。夜間受付に飛びこむようにして尋ねると、係の男はひと呼吸おいた後、
「その方でしたら、廊下突き当たりの左手の階段を下りたところの部屋です」
 と、伏し目がちになって言った。
「地下室ですか?」
 一階から階段を下りるのだなと、単純にそう思って確かめた。
「そうです」
 係の男は今度は完全に萩野から視線を逸らし、右側においてある書類を手にとった。
 萩野は胸をドキドキさせ、足元も相変わらず小刻みに震わせながら階段を下りていく。一階に比べると廊下の照明がいくぶん落ち、薄暗い一種独特の雰囲気が萩野の頬をひんやりさせた。
 美圭はすぐに見つかった。長椅子に腰かけ、前の壁をぼんやり眺めている。母親はその横で背を丸めてうつむいている。二人に声をかけながら近づこうとしたその瞬間、萩野は絶句したまま、足が床に張り付いてしまったかのように動けなくなってしまった。
「ああ、きてくれたのね」
 美圭が焦点の定まらぬ目でそう言ってきても、萩野の目は部屋の名札に釘づけになった。母親が萩野に気づいて会釈したのが視界に入り、それでようやく我に返った。美圭とは対象的に泣きはらして目を真赤にしていた。
「お父さん、だめだったのか?」
 美圭が微かに首を縦に振る。名札には“霊安室”と書かれてあったのだ。
「外傷はほとんどないのよ。首の骨が折れて即死だって。左からぶつけられて、その勢いで右側も側壁にぶつかったらしいの。そのとき首も左右に振れて折れたんだろうって」
 萩野も全身の力が抜けてしまい、よろけるようにして美圭の隣りに腰を下ろした。
「さっき430で話してたばっかりなのに、なんでこんなことに。場所はどこで?」
「246号線から環状七号線に右折して入っていくところがあるでしょ、あそこ・・。対向車がくる前に無理やり横切ろうとして、トラックにぶつかってしまったんだって。無線をやっててそっちに気をとられてたことも原因じゃないかって」
「ああ、なんてこった」
 萩野は両手で頭を抱えこんだ。

受付

「QSOしてた相手は研二さんなのね」
「いや、駒沢あたりまではやってたけど、俺と終わったあとで知らない局から道案内を頼まれてさ。周波数を変えてたりしてたから、それで注意散漫になったのかもしれない。俺が代わりに出ればよかったんだよなあ」
 すると、美圭がこともなげに言う。
「気にしなくていいわ。車での無線はわたしが物心ついたころからやってるのよ。そんなことで事故を起こしたりはしないわよ。お父さん、殺されたのよ」
 ギョッとして顔を上げた萩野に、美圭は顔色を変えるでもなく一点を見つめていた。
「ほんとに申し訳ありません」
 突然斜め向いの長椅子でうつむいていた作業服の男が立ち上がり、腰を直角に曲げて深々と頭を下げた。萩野は誰なのか皆目検討がつかず美圭と母親の顔を交互に見やったが、二人ともなんの反応も見せないので、しかたなくドアの前に立っていた年配の警官に視線を投げかけた。
「トラックに同乗されていた方です。運転手の方は署で取り調べを受けています」
「ああ、そうでしたか。それはどうも」
 萩野のその言葉を残したきり、廊下には静寂だけが漂った。
 ひっそりと、人の息吐く音だけが空気を振動させる。霊安室はドアの向こうの一室だけではなく、地下一階のフロアー全部が霊安室のようだ。上階からは階段を伝わって、微かに人の話し声やワゴン車の走る音が聞こえてくる。臨死体験者の話しの中に、あの世へ渡る橋が出てきたり川が出てきたり、果ては渦巻き状のトンネルが現れたりするのがあるが、まるでそのトンネルを連想させた。
 萩野はほかの者には気づかれないよう深呼吸をしたが、それを待っていたかのように美圭がぼそっとつぶやいた。
「殺されたのよ。犯人はあいつよ、電話でバカヤローって言ったヤツ・・」
「え、この数日かかってきてるというイタズラ電話のことか?」
「うん。ほとんどは無言だったけど、わたしが出たとき一度だけバカヤローって言われたことがあるの。あいつよ」
 はじめに「殺された」と聞いたときは、美圭が感情的になっているあまりの比喩的な表現だと思っていたが、どうやら“殺人”を意味しているようだ。視線は必然的に作業服の男にいった。
「そ、そんな・・。私らは佐々木さんのことはまったく存じあげてないんですよ。偶然あそこで出合い頭にぶつかっただけなんです。きょうは名古屋にいく予定になっていたんですが、町田へいく路線便を走る者が風邪を引いて寝こんでしまったものですから、急きょピンチヒッターで246を走っていたんです。嘘だと思うんでしたら、いくらでも調べていただいてけっこうですから」
 男は警官に訴え出るようにして言った。
 警官は「ええ、ええ」とうなづいてから、
「こういうときですから」
 と作業服の男をたしなめ、返す刀で美圭にも言った。
「お嬢さん。お気持ちはわかりますが、イタズラ電話のことは捜査課の者がきっちり調べますからそれまで待ってください。その上で今回の事故と関連があるのかも調べてみますのでね」
 男は渋い表情をさらに険しくさせたが、警官が首をゆっくり振って「まあ、まあ」という仕種をすると、諦めたようすで椅子に腰を下ろした。
「なんでもいいから、お父さんを生きて返して!」
 美圭は萩野の膝にうずくまるようにして抱きつき、それまで我慢していたものを一挙に吐き出すかのように鳴咽をあげて泣いた。萩野は母親の手前、手をどこに添えたものか一瞬迷ったが、すぐに美圭を包むように抱いた。
 母親も美圭の背中をさすり、そして萩野を食い入るように見つめてつぶやいた。
「さっき研二さんて呼んでたけど、あなたたち?」
「す、すみません。あの、なにも変なことはしてませんので」
 つい、そう口走ってしまったが、その場の状況にそぐわない言葉に萩野はなおのこと背を丸めて美圭を抱いた。事実、美圭の温もりを直接に感じるのはこれが初めてだった。
 母親は「ふ・・」と、笑みとも吐息ともとれる呼吸をすると、空いた右手で垂れた頭を支えた。
 重苦しい空気が廊下を支配し、普段はまず聞こえることのないクォーツ腕時計の正確な一秒ごとの秒針音が「カチ、カチ」と響き渡ってくる。許されるならば思い切り、「ワアッー」とでも騒いでしまいたい衝動にかられるのだった。
 美圭の荒い息遣いがいくぶん落ち着いたころ、萩野はなぜそうやっているのかの不自然さをそのときになってようやく気づき、警官に小声で尋ねる。
「それで佐々木さんのご遺体はどちらに?」
「いま、中で検死をやってますのでもうしばらくお待ちください」
 またそぞろ沈黙が続いたあと、今度は母親がぼそっとつぶやいた。
「この先どうしたらいいのか」
「葬儀の手伝いでしたら何度もしてますからお任せください」
 すると母親はハッとして顔をあげ、萩野を凝視した。
「そうでしたわねえ」
 またとんちんかんな答えをしてしまったようだ。だがそれにしても、とんだところで便利屋の威力を発揮しそうだった。