1 不吉な予感

「よっこらしょと」
 萩野はいまし方引っ越しを手伝ってきた家から、必要なくなったというのでもらってきた整理ダンスを軽トラックの荷台から降ろした。
 一度美圭(みか)から、
「三流私大とはいえ法学部を出た人が、どうしてこんな仕事をやってるの? 別に便利屋さんを馬鹿にしてるわけじゃないのよ」
 と、訊かれたことがある。そのときには少々カチンときながらも胸を張って答えたものだ。
「人から命令されたり、せせこましい人間関係が嫌いでさ。要するに宮仕えが性に合わないってことさ。その点個人商売なら小さいながらも一国一城の主だろう。誰に気兼ねをすることもないしさ。便利屋じゃなくてもよかったんだけど、たいした資本も必要なくて車を持ってて電話さえあれば、それで仕事は入ってくるからさ。俺に合ってるんだな」
 だが生来腕力には自信がないだけに、引っ越しのような力仕事をやるときだけは、つい美圭の言葉を思い出し自問自答をやってしまうのだった。ひと頃までは住居兼事務所のアパートで電話を受けていたが去年からは八階建てのマンションの一室に移り、その一階には曲がりなりにも事務所を構えて、ときにはアルバイトの学生もつかうようになっていた。
 事務所には留守番電話機と机以外にめぼしい物はおいていないので、めったに鍵をかけることはない。後ろ向きになって足の踵でガラス扉を開けるとそのままの格好で事務所の中に入り、壁際に整理ダンスをおいた。
「よしと、これでいいか」
 手を「パンパン」と叩いたのとほとんど同時だった。
「それ、どうするの?」
 びっくりして振り返ると、机に肘をついた美圭がいた。
「なんだ、きてたのかあ。心臓に悪いぞ、ひと声かけてくれよな」
「いつ気がつくかなあと思って黙って見てたの。案外鈍いのね、アハハハ」
 いかにもしてやったりといったようすで、美圭は全身をゆらゆらさせ黄色い声で笑い転げた。
 美圭との最初の出会いは、美圭がまだ中学生のときだった。かれこれ五年も前のことになる。
 太陽がカンカン照りつける八月の日曜日、晴海での仕事が客の都合で数時間待たされることになったのだが、事務所にもどるには中途半端な時間でもあり、喫茶店に入って時間をつぶすには長過ぎるし、車の中でひと寝入りするには冷房がついていない車では惨め過ぎるしで思案にくれていたところ、ふと晴海通りを国際貿易センタービル方向に人や車がぞろぞろ向かっていくのが目についた。国際貿易センタービルで催し物があるのはめずらしいことではないので、暇つぶしにはもってこいとばかりに萩野もいってみることにした。
 入口には大きな立看板がそびえ立ち、これまた大きな文字で“ハムフェア会場”と書かれてあった。はじめは食べ物のハムやソーセージの品評会なのかとも思ったが、会場のあちこちに立て掛けられている小旗や、建物に張りついた“アマチュア無線”の文字が踊る横断幕を見て、すぐまちがいであることに気づいた。
 入場料を払い建物に入ると、活気あふれた人の雑踏に圧倒されながらも、各展示場をきょろきょろ覗き見しながら歩いていた。すると人混みの中からひょいっと出てきた男に思い切り肩をぶつけられてしまい、その拍子に小脇に抱えていた仕事に使う書類を入れた皮バッグを落としてしまった。それだけならどうということはないが、財布を取り出したあとバッグのチャックを完全に閉めていなかったものだから、前日印刷屋から仕上がってきたばかりのプラスチックケースに入ったままの名刺を一面にばらまいてしまった。
 男の娘と見られる連れの小柄な女の子が、
「わあ、大変!」
 と言ってすぐさま拾い集めにかかってくれた。それが美圭だった。
「どうもうっかりして申し訳ありません」
「いいえ、よそ見をしてたこちらにも責任があることですから気になさらないでください」
「あの、よろしければ一枚いただいてもかまわないでしょうか?」
 男は拾った名刺を手にしながらそう言うと、自分の名刺も差し出してきた。
「ああ、これはどうも」
 男の名刺は自前のものらしく、本来なら会社名が刷りこまれてある部分には“アマチュア無線局・JA1UT×”と書かれてあり、名前は“佐々木健二郎”とあった。
「さしつかえなければ、コールサインを教えていただけませんか?」
「は・・・? ああ、いいえ、私はぶらっと入っただけでアマチュア無線をやってるわけではないんです」
「そうでしたか。いま娘と冷たいものでも飲みにいくつもりだったんですが、時間があるようでしたら、ぜひお詫びかたがたなにかごちそうさせてください」
 横から美圭がにっこりするのを見てつられたわけではないがその言葉に甘え、あとで知ったことだが、ハムがいうところのアイボールQSOとなった。
 それがハムになるきっかけとなった。というのも、佐々木がおもしろいからぜひやってみないかと積極的に勧めてきたのだ。それからは週に一度、佐々木宅にあししげく通ってはいろいろ教えてもらい、仕事がそれほど忙しくなかったせいもあったが三ヶ月後には四アマを取得したのだった。
 美圭と個人的に付き合い出したのはここ一年ぐらいのことで、ある日佐々木の家に立ち寄ったところ、美圭の友達が遊びにきていた。いくぶん大人びて見えるようになってきた美圭と友達を相手に、
「今度時間があったら、みんなと遊びにきなよ。隣りの喫茶店のバナナパフェがうまいからさ、ごちそうするよ」
 などと、鼻の下を長くしてほらを吹いたのが始まりだった。

 ところが美圭は、さっそく次の日にはそのときの友達二人と、
「この子が近くなの。送るついでだったものだからね」
 と、どうでもいいような屁理屈をこねてやってきたのだ。さらにその翌日には、今度は一人で顔を見せた。そして、二日続きでバナナパフェを口にしながらうつむき加減になって言うことには、
「昨日ここにきたことはお父さんにもお母さんにも話してないのよ。きょうも話すつもりはないわ」
 と、きた。萩野はうれしいやら驚くやらで困惑したが、いまさら「くるな」とも言えず、佐々木には多分に後ろめたさを感じながらも、週に一、二度のバナナパフェをはさんでのデートは続くことになった。もっともバナナパフェは、三ヶ月目からはコーヒーに替わった。
 美圭がやってくるようになってからは佐々木宅に足を踏み入れるのは気が重くなり、佐々木とはもっぱら430メガのQSOか、逆に佐々木がときおり会社の帰りに萩野の事務所に寄っていく付き合いになってしまった。
 最近では時間があると、美圭は上階の住まいにまで上がりこみ夕飯の仕度をしてくれる。さらには萩野が不在のときには電話番までやってくれるようになっていた。
「テープになにか入ってたか?」
「いいえ、なにもないわ。わたしがきて一時間ほどになるけど電話も全然ないわよ。よくこれで仕事にありつけるわね」
「くるときはくるんだよ。明日あさってだって予定は詰ってるんだぞ」
「うふふ、怒らなくたっていいでしょ。盗まれた車なんだけど、五日前に見つかったのよ」
「へえ、よかったなあ。この近くで見つかったのか?」
「それが狛江市の月極めの駐車場に止めてあったんだって。見馴れない車がずっーと止めたままにしてあったから、管理人が不審に思って警察に届けたらしいのね。車は無傷だったけど小銭とか首都高速の回数券がなくなってたわ。あ、そうそう。トランシーバーとわたしのデパートで買ったワンピースもなくなってたわ、気にいってたのに」
「ふーん、すると目当ては車そのものより金か?」
「警察の人の話しじゃタクシー代わりに乗っていって、あとはついでに盗んでいったんだろうって言ってたわ。犯人は絶対あいつよ」
 美圭は正面を見据え、机に添えた両手で握り拳をつくった。
「コンビニの前のベンチにすわってたという学生風の男のことか。でも、車が無事もどってきたんだから不幸中の幸いとでも思わなきゃあな」
 美圭は力なく視線を落とし、大きな溜息をつきながら自分に言いきかせるようにこっくりうなづいた。
 突然トランシーバーのスピーカーがその皮膜を震わせる。
<JM1QK×、ジャパン・マイク・ワン・クィーン・キロ・×××。入感ありませんか、JA1UT×>
 声の主は、こんな早くにお空に出てくるのはめずらしい佐々木だった。
「わっ、いけない。新しいトランシーバーを買ったんだわ。きょうはハムショップに寄るから残業はしないって言ってたの。鉢合わせになったりしたら大変だからこれで帰るわね。明日またくるわ」
 美圭は全部をしゃべり終わらないうちからカバンを手に持ち、そそくさと出口に足を向けた。
「送らなくていいのか?」
「バスで帰るからいいわ。お父さんの相手してあげて、じぁーね」
 笑顔で小走りに駆けていく美圭を見送ると、萩野は再度トランシーバーの前にすわった。
<JM1QK×、ジャパン・マイク・ワン・クィーン・キロ・×××。聞いてないでしょうか。こちらJA1UT×・モービル、ジュリエット・アルファ・ワン・ユニフォーム・タンゴ・×××、どうぞ>
<了解、お待たせしました。JA1UT×、JM1QK×。車がもどってきたそうで、よかったですね。59で入感してます。この近くまできてるのしょうか。JA1UT×、JM1QK×>
<はい。あれえ、車のことを話しましたっけ?>
<い、いや、聞いてませんけど、今移動中って言ってたでしょう。ですから返ってきたんだなあと思いましてね>
 萩野は思わず額の汗を手の甲で拭った。
<ああ、そういうことでしたか。いやあ、何日か前に警察から狛江の駐車場に放ってあると連絡がありましてね。トランシーバーと小物は失くなってたんですが、車そのものはなんとも・・・・・・せんでね。半分諦めていたところですから、ほっとしましたよ。そういうわけでトランシーバーは先ほど仕入れたばかりの最新式の・・・・でしてね。どうですか、聞いた感じは? 前みたいに途切れるようなことはないでしょう>
<あ、佐々木さん。いま、二度ほど切れてしまいましたよ>
<ええ、またですか。まいったなあ。たぶんアンテナかケーブルのコネク・・・・どちらかですよ。新品のトランシーバーが故障ってことはないでしょうからね>
<了解、JA1UT×、JM1QK×。今も切れましたねえ。ふーむ、なかなかうまくいかないものですねえ。なんでしたらケーブルごとそっくり新しいものに交換したらいかがですか>
<そうですね、帰ったらさっそく取りかかります。それじゃ、あまりみっともない電波を出してるわけにもいきませんからこのへんで引っこみます。替えたら試験がてら出てみますから、時間があるよう・・・・たらワッチしててください。JM1QK×、JA1UT×。じゃ、どうも>

トランシーバー

 萩野が一服するにタバコをポケットから取り出して、火をつけようとしたときだ。佐々木をコールする局がいた。
<JA1UT×、こちら7L1LH×、セブン・エヌ・ワン・リマ・ホテル・×××。よろしかったら応答願います、どうぞ>
<了解。JI1LH×、セブン・エヌ・ワン・リマ・ホテル・×××。JA1UT×です。申し訳ないんですが、アンテナの不調で・・・・どき途切れるかもしれませんのでご了承ください。セカンドになるんでしょうか。59で入感して・・す。QRAは佐々木です。一般的な佐々木です。今後ともよろしくお願いします。7L1LH×、JA1UT×。玉川通り、駒沢にさしかかったところです>
<はい、了解です。JA1UT×、7L1LH×。私のQRAは斎藤です。やはり普通にありふれた名前の斎藤です。たぶん初めてになるかと思います。東名高速の用賀インターを下りたところなんですが、近くを走っているようですね。それで都内に入る道順を教えていただきたいと思いましてお声がけしたんですが、どうもこのチャンネルはほかの局も使っているようなんで、恐れ入りますが433・52にQSYしていただけないでしょうか。JA1UT×、7L1LH×>
 萩野は確かめるために手早くつまみを左に回しスケルチを解除したが、FM特有の耳障りな雑音が流れるだけでほかの局がこのチャンネルを使用しているようすはなかった。
<了解。7L1LH×、JA1UT×。はい、じゃQSYします>
 萩野も首を傾げながら、きっかり1メガ上の周波数にダイヤルを合わせる。
<JA1UT×、7L1LH×。入感ありますか、どうぞ>
 新しい機械のせいでまだ使い慣れていないためか、LH×局がさらにコールした後、ふた呼吸ほど遅れてから佐々木の応答があった。
<7L1LH×、JA1UT×。きちんと入ってるで・・・・・・か。そちらは同じく59です、どうぞ>
<はい、了解です。こちらにはSは7程度で入ってるんですが、やはり誰か使ってるようです。ところどころつぶされてしまってますね。すみませんが、もう一度438.52にQSYします。JA1UT×、7L1LH×>
 これもまた、萩野には解せなかった。ときおり佐々木の電波は途切れはするものの、ほかのキャリアから抑圧を受けているようすはどこにもないのだ。しかもQSYするにしても、5メガも上の周波数に変えるというのは常識外れだ。
<はいはい、438・52ですね。少し離れてますので、ちょ・・・・手間取るかもしれません。じゃ、QSYしまーす>
 佐々木にしても気分を害したとみえ、いくぶん投げ遺りな口調だ。二人ともいなくなると、あとにはザッーというFMノイズだけが残った。
 萩野も手元が暇なこともあってさらに追いかけるべく、今度はダイヤルではなくキーボードで周波数を合わせた。車を運転しているわけではないから、当然二人より早く目的の周波数に到達する。
<JA1UT×、7L1LH×。聞こえますか。今度はだいじょうぶなようですね。どうぞ>
<了解>
 ブレイキングタイムを設けたとみえ、佐々木はいったんマイクを切った。が、ほんの一瞬でいいはずの時間がやけに長く、次の声がなかなか聞こえてこない。
<JA1UT×、7L1LH×。どうしましたか。入感ありますか、どうぞ>
 LH×局は再度、催促のコールをしたが、それでも佐々木の音声は音沙汰なしだった。萩野もつい我慢できずに声をかける。
<7L1LH×、こちらJM1QK×、ジャパン・マイク・ワン・クィーン・キロ・×××です。UT×局のローカル局なんですが、アンテナコネクターの接触が悪いというようなことを言ってましたので、それがだめになったんだと思います。7L1LH×、こちらJM1QK×。どうぞ>
<はい、了解です。JM1QK×、7L1LH×。ああ、そうでしたか。どうなさったのかと思ったんですが・・。それでは一方的になってしまいますが、QK×さんから佐々木さんの方によろしくお伝えいただけないでしょうか。どうもありがとうございました。JM1QK×、7L1LH×、セブンティ・スリー>
<あ、あの・・、道案内でしたら僕でもわかりますけど>
<いや、ご迷惑をおかけしてもなんですから、車を止めて訊いてみることにします。ありがとうございました>
 それなら最初からそうすればいいのにと、不愉快に思いに捉われながらマイクをおいた。
 そのうち佐々木の声が聞こえてくるだろうと、いらいらしながらタバコを吹かして待ったがいっこうにその気配がない。しかたなく萩野から二度ほど佐々木のコールを呼んでみたが、やはり応答はなかった。