AREA1  奇妙な隣人

            その2
「お父さん、お客さまよ」
「やあ、いらっしゃい」
 無線機に向かっていた父親は、ちらっと振り返っただけで無線機のダイヤルを回し、「ピー」という音を出してメーターに見入っていた。
 家の造りはダイニングキッチンと、板張りのリビングだけというマンションの小さな一室を思わせる間取りになっていた。リビングには器械類が並べてある机とソファセットがポツンと置いてあるだけで、生活の臭いはほとんど感じられなかった。
「どうお?」
「ああ、SWRは1.1ぐらいさ。これだったらなんの調整もいらないな」
「そう。うまくいったわね」
 亜香里が正和の方に向き直って言う。「張ったアンテナのマッチングをとってたところなのよ」
「はあ?」
「ふふ、亜香里。きちんと説明してあげないとなにもわからないぞ」
 父親はそう言うと、立ち上がってダイニングのテーブルに場所を移した。
「そうね。ここに座って」
 促されるままに父親が座っていた椅子に腰を下ろす。
「これが電鍵ていうのね」
 と亜香里が目の前に置かれた道具を指差して言う。「モールス通信って聞いたことがあるでしょう。あれの符号をこれで打ってやるわけね」
「ああ、なるほど・・」
 やっとわかる言葉が出てきた。だが、昔写真で見たことのあるものとは形が違うような気がした。
「このレバーをちょっと動かすと送信状態になるわけね。左側のメーターが電波の出力電力を表してるパワー計、右側はSWR計っていうの。電波を発射すると必ずしも全部が出ていくわけではなくて、そのうちのいくらかはもどってくるのね。それを反射波っていって、出ていく電波は進行波。その二つを比較してメーターに表したのがSWRっていうの。反射波はなるべく小さい方がいいから、針もなるべく振れない方がいいの」
 メーターを見ると、パワー計の針は右端まで振れているがSWR計は左に寄ったままで微かに振れているだけだ。
「じゃ、打ってみるわね」
 亜香里はそう言うと電鍵の上に付いたスイッチを切り換え、レバーを右に左に動かした。するとそれぞれ一回づつしか動かさないものが、『ピピピピピ、ピーピーピーピーピー』と五回づつ、頭の芯まで響くような甲高い音が流れた。
「おもしろいでしょう。これ、エレクトロニクスキーヤーっていうんだけど、俗にヨコブレともいってね。左にやれば短点が、右にやれば長点の連続音が出るようになってるの。一つ一つ打つよりも楽でしょう」
「ふーん、便利にできてるんだね」
「ね、SOSの符号はどんなふうに打つか知ってる?」
 訊くまでもないことを、亜香里は得意気に言った。スピーカーからは、今度は『ピピピピーピーピーピピピ』と、正和には雑音としか聞こえない音が流れる。するとうまそうにパイプの煙をくゆらしテレビに見入っていた父親が、手にしていた新聞紙を放り投げてガバッと立ち上がった。
「おい、よさないか。ダミーアンテナじゃないぞ。電波が出てるんだぞ」
「ふふ、ごめん。ほんとのSOS信号とまちがわれたら大変よね」
 亜香里がちゃめっけたっぷりに舌を出す。「わたしのコールサインをゆっくり打ってみるわね」
『・・・− ・・・− ・・・− ・・・− ・・・−』
「まだよ。これは試験電波の信号で、Vの連続音ね。いーい、DE JQ1NG×よ」
『−・・ ・ ・−−− −−・− ・−−−− −・ −−・ ×』
 亜香里はレバーを右に左に、器用に動かした。
「ふふ、わかった? 最初のDEは“こちらは”の意味ね」
「ふーん ・・・」
 正和は眉をひそめて首を傾げた。
「わかるようになればおもしろいのよ。人それぞれに打ち方にクセがあってね。慣れてくると、コールサインを聞かなくても誰が出してるかわかるぐらいよ」
「普通にしゃべってるのはないの?」
「そうね。わからないものを聞いてたっておもしろくないわね。これは1.9メガヘルツの周波数帯でCW専用なのね。CWっていうのはモールス通信のことね。さっきポールにコの字形に張ったアンテナがあるでしょう。あれがそうよ。周波数が低いほどアンテナも長くなっちゃうの」
「どうして?」
「電波の特性から波長とアンテナの長さが一致してないと、電波が空中に飛び出していかないのね。電波の速度は光と同じで一秒間当たり三十万キロメートルでしょう。波長は速度を割ることの周波数だから、分母の周波数が小さくなるほど商の波長が大きくなるでしょう。それだけアンテナも長いのが必要になるってわけ」
「へえ、詳しいんだね」
「三年前になるけど、免許を取るときにいっしょうけんめい勉強したもの」
「高校生でねえ。一発で合格したの?」
「ええ。だって小学生だって受かる試験なのよ。落ちたら笑われちゃうわ」
 電波のことは高校のときの物理で習った記憶はあるが、ほとんど覚えていない。それを小学生が受かるなどというのは、簡単なのかむずかしいのか判断が尽きかねた。
「誰でも受けられるものなんだ?」
「ええ、学歴、年齢、性別、国籍も関係ないわ。大学生なら二ヶ月も勉強すれば合格できると思うわよ」
 亜香里は意味ありげな目で、正和を覗きこむように見た。正和は目線をずらすと話しをもどした。
「それでさ、普通の会話でやってるのはないの?」
「そうね。7メガをワッチしてみましょう。ワッチっていうのは、要するに聞くことをいうのね」
 亜香里が大きなダイヤルの脇のプッシュスイッチを二度押すと、デジタル表示の左端の数字が1から7に変わった。「これが7メガヘルツ帯ね。この周波数は国内のQSOに使われていることが多いわね。QSOっていうのは交信のことね。朝から晩までよくぞこんなに暇な人がいるなあって、感心しちゃうぐらい誰かしら出てるわよ。わたしもやり始めのころは毎日のように出てたんだけど、最近はたまにしかやらなくなったわね。ほら、聞いて」

パドル

 ダイヤルをちょっと回しただけで、人の話しが次から次へ聞こえてきた。それも安いラジオのような、混信のバーゲンセールとでもいえるほどに人の声が重なり合っている。
<こちらジャパン・アメリカ・セブン・キロ・ヤンキー・×××。JA7KY×です。お初だと思いますが今後ともよろしくお願いします>
「はじめに言ったのは、フォネテックスコードっていってね。Jがジャパン、Aがアメリカね。これだけ混み合っていると、JAがJEに聞こえたりするでしょう。そういうまちがいを避けるために使うの」
<QTHは宮城県仙台市です。QRAは新聞のシ、マッチのマ、鶴亀のツに濁点、シマヅとと申します>
「QTHは住所、QRAは名前のことね。Q符号っていってね。ほかにもQRTとか、QRUとかいろいろあるのよ。万国共通だから外国局とのQSOでも同じように使えるわよ。あとのは日本語のコードね。シがイに、マがアに聞こえたりするでしょう」
「ふーん。アルファベットもアイウエオも全部きまったのがあるんだ?」
「そう。自分でかっこいいのをゴロ合わせで使う人もいるわよ。この前、MYYのサフィックスを持ってる人が、港のヨーコ横浜とか言ってたわね」
「サフィックスっていうのは?」
「コールサインの下三ケタのことよ。個人に対して順番に割り振られていくようになってるの。人によっては二ケタの人もいるわ。はじめの三ケタはプリフィックスっていって、最初のJAが国を表しているのね。国際電気通信条約で国単位に決まってて、日本が使えるのはJAからJS、7Jから7N、8Jから8Nだけね。三番目の数字は地方の識別符号で、7は東北地方、1は関東地方って具合いに、1から0まで十通りに分けられているわ。それとコールサインの組み立ては、国によっては三ケタを使用している場合もあるし四ケタを使用している場合もあるわ。日本は五ケタか六ケタだけね」
「普通のラジオの声と違って、キンキンしたところがあるね」
 正和は父親がテレビに見入っているのを確かめてから、小声でささやいた。「この機械はあんまり高い方じゃないんだろうね?」
 亜香里が呆れたように言う。
「もう・・。このトランシーバーは最高級品よ」
「そう。あれ、トランシーバーっていうのは手に持つような小さいのをいうんじゃなかった?」
「いいえ、そうとは限らないわ。一つの無線機の中に送信機と受信機がいっしょに収まっているものをいうの。英語で送信機のことはトランスミッター、受信機がレシーバーでしょう。二つの合成語でトランシーバーっていうの」
「なるほど」
「それにキンキンするのはラジオとは電波型式が違うせいよ。中波帯のラジオをAM放送っていうでしょう。基本的にはそれと同じなんだけど、SSB方式っていって、AM波から搬送波と二つの変調波のうちの一つをカットして、残り一つの変調波だけをお空に飛ばしているの。だから、人が話したときだけメーターが振れるでしょう」
 理屈はよくわからないが、普通のラジオは同調が合っていればその強さに応じてシグナルメーターは振れっ放しになっている。これはステレオのVUメーターのように人の言葉の強弱に合わせてメーターの針が振れていた。
「これが地声かな?」
 ダイヤルを微妙なタッチで合わせないと、どれがほんとの声かよくわからないのだ。
「ちょっとだけ右に動かして・・。そう、そんなものよ。SSBはよけいなものをカットしているせいで帯域幅が狭いから、同調をとるのもむずかしいのね」
「ふーん。こんなことまでして人とおしゃべりするのが、そんなにおもしろいものかな?」
 すると亜香里はいくぶんほっぺたを膨らませて言った。
「楽しいわよ。いろんな人とお話しできるのよ。世間話しだっていいし、ハムの技術的な話しだっていいし、少なくとも毎日軒先に出てぼっーとしてるよりは、ずっとためになると思うわ」
「・・・・・」
 正和は聞こえないふりをしてダイヤルをいじり回した。
「ねえ、免許取りなさいよ。学校にもいかないで無駄な時間をつぶしているんだったら、その勉強をするだけでも有意義な時を過ごせるってものでしょう。A学院大に入る頭があるんだったら、二ヶ月も勉強すれば簡単に合格できるから。部屋に居ながらにして、あっちこっち出掛けたような気分で遊ぶことができるわよ。詳しいことは知らないけど年中暗い顔して一生を終わる気?」
 正和はダイヤルをいじるだけでは足りず、プッシュスイッチを押しまくった。周波数表示が7から14、18、21、24、28と変わると、突然1.9にもどった。びっくりして手を引くと、亜香里が「くすくす」と笑った。
 正和がか細い声で反論する。
「こんな足じゃどうしようもないさ。好きでこんなザマになってるんじゃないよ」
「だから、やることないんだったら免許取ってハムをやってみなさいよ。家の中でやれるんだから、なんの問題もないでしょう。少しはものの見方とか考え方が変わるわよ。お金がちょっと大変かもしれないけど、十万もあれば器械もアンテナも全部含めて一式揃うわ。中古だったらもっと安くて済むし・・。アンテナはお父さんのみたいな立派なものじゃなくて二階のベランダで充分よ。わたしが張ってあげるわ」
 父親も追い討ちをかけるように、ダイニングルームからぼそっと言った。
「私もお手伝いしますよ。ベランダから地上に向かって線を張ればいいだけのことですから簡単ですよ」
「はじめは7メガヘルツと21メガヘルツがいいわ。国内のQSOには困らないから。たまにはDXだってできるしね。DXって外国とのQSOのことね」
「考えてみるよ」
 正和は素っ気ない素振りで答えた。立ち上がって杖を掴もうとすると、その手を亜香里がさえぎるように両手で握り、にっこりしながら「ね・・」とうなづいた。