AREA1  奇妙な隣人

            その3
 亜香里の視線から逃れ横を振り向くと、トランシーバーの脇にアルファベットが大書きされたハガキのようなものが数枚放置されてあるのが目に留まった。
「これはなに?」
「それはQSLカード、日本語でいうと交信証ね。QSOしたらお互いに相手に送る慣習があるの」
「LU1RE。これは外国からのやつ?」
「そう。LUはアルゼンチン、Wはアメリカ、VKはオーストラリアよ」
 亜香里はカードをめくりながら説明する。
「じゃ、国際郵便の郵送料もバカにならないだろうね?」
「それは大丈夫よ。ジャール、日本アマチュア無線連盟の会員になれば、月にいっぺん無料で回送してくれるの。向こうからもただで送ってきてくれるわ。ほら、この国内局のカードに印刷されたマークを見て。これはジャールの会員であるっていう証明ね」
 亜香里が指差すところには、アルファベットで“JARL”と書かれた菱形のマークが印されてあった。
「これはきれいだね」
 たいていは単純にアルファベットと数字を大きく印刷してあるだけだが、その中の一枚にオーロラのカラー写真を刷り込んでいるものがあった。
「それはOH、フィンランドの局ね。こうやって自分の好きな写真とか絵を載せている局もあるわ。わたしのは国内局のが多いけど、自分で書いたイラストとかヌード写真を使ってるものとか、凝ってる人がいるわよ。これも楽しみのうちの一つね」
「ふーん。で、カードを集めてどうするの?」
 すると、亜香里はまた口を尖らせた。
「どうするって、いろんなところとQSOしてカードを集めること自体が悦びなのよ。趣味ってそういうものでしょう。魚釣りをやる人に、魚を釣ってなにがおもしろいんだって訊いてるのといっしょでしょう。アフリカとか中南米の、局が少ないところとQSOできたときの感激っていったらないわよ。さらにその局のカードが送られてきたときには、また何倍もうれしいものよ」
「そんなに気張って言わなくたって」
 下手をすると、唾の雨嵐が飛んできそうな勢いだ。
「あとアワードっていって、一定のルールのもとにカードを集めると賞状をもらえる制度があるの。ほかにも決められた時間内にどれだけの局とQSOしたかを競う、コンテストというのもあるわ。電波を出すことよりもLSIなんかを使って自作に打ち込んでいる人もいるし、車にトランシーバーを積んで近隣の人との会話を楽しんでいる人もいるし、ひと口にアマチュア無線っていったっていろんな楽しみ方があるのよ」
「なるほどね。けっこう奥が深いんだね」
 正和は大きく首を振って言った。「これは?」
 本棚に“アマチュア無線局名録”との表題が打たれた分厚い本が目に入った。
「それはコールブックともいうんだけど、アマチュア無線をやってる全部の局の氏名とか住所が書かれてあるの」
「プリフィックス順に記載されてるんだね。JA1の次は、どうしてJE1ではなくてJH1になってるの?」
「それはJA1が終わった段階で、その次にJH1が指定されたのよ。次にJRで、さらにJEという風にね。その順番で並べられているの。そうよね、お父さん」
「そうだよ。どうして素直にアルファベット順に免許されなかったのかは私もよく知らないんですが、電信で打つ際、JAと比べた場合にJEだとわかりづらいというのでJHにしたというようなことを聞いたことがありますね。JE以降はいちいちそんなことを気にしていたらキリがないということで、それからはアルファベット順にいったんですね。いずれにしろたいした理由はないですよ」
 コールブックをさらさら捲っていく。途中までいくとふと妙なことに気付いた。
「JA1はところどころ抜けている局があるけど、どうしてこんなふうになってるの?」
「それは局免許が切れて、現在はハムをやってない人よ」
「JH1以降の人はだいたい詰ってるのにね。JA1の人は飽きっぽい人が多いんだね?」
 亜香里と父親が顔を見合わせて苦笑した。
「そういうわけじゃないのよ。コールサインがJSまですべて免許されてしまって後、空いたところへ再免許の指定がされたのね。ところがJAだけは特別扱いでその指定から除外されたために、空いたままになっているのが多いわけね」
「へえ、どうしてJAだけが特別扱いになったわけ?」
 亜香里は首を傾げると、再度父親を見た。
「ええと、確か緊急事態が生じたときのためにJA、JB、JCの三つを空けておくということと、JAコールの再指定に希望者が殺到して混乱するからというような理由でしたね」
「ふーん、いろいろあるんですね」
「じゃ、電波を出してみましょうか?」
 亜香里はそう言って、電鍵を手前に引き寄せた。

QSLカード

「話すのはできないの?」
「ここにはマイクがないの」
「へっ!?」
 父親が申し訳なさそうに苦笑いで応える。
「お父さんはDXのCW専門だから電鍵しかないのよ。それにアンテナは1.9メガと14メガしかないから、7メガは出せないの。今度わたしの家にいらっしゃいよ。向こうなら7メガのほかにも50メガと144メガ、430メガも出られるようになってるから近くの人ともQSOできるわよ」
「ふーん、そうなんだ」
 正和の怪訝そうな返事に、亜香里はうつむき加減に声を細めて言う。
「ここはハムをやるための別荘みたいなものなの」
 それまではしゃぎぎみに明るく振舞っていた亜香里が、両肘をついて塞ぎ込んだ。
 ダイヤルをゆっくり回していくと、ほとんど男ばかりの声が女の声に変わった。
「お、初めてだね」
「ええ、YLさんはハムの中では小数派ね。だからYLさんが出てくるとみんなが呼ぶわよ」
 亜香里の言うとおり、その女性が<どうぞ>と言って引っ込むと、男どもが、一人ひとりの声がわからなくなるほど何重にも声を重なり合わせて呼んでいる。
「すごいもんだね。顔が見えないせいもあるんだろうけど、女なら誰でももてるって感じだね」
「フ・・、なによ!」
 元気がよみがえったのか、亜香里はわざとらしく笑顔に中に怒りの表情をつくった。
「ああ、YLっていうのは?」
「Young Lady の頭文字よ。要するに女性のことをいうの」
「ふーん。じゃ、この人なんかけっこうおばさんみたいだから、Old Lady でOLだね。はは・・」
「うふ、よく言うわね。それと結婚した女性は元YLで、XYLっていうの」
「それじゃ離婚した女性は、元の元でX2YLってとこかな。アハハ・・・ハ?」
 また突然に亜香里の笑顔が消えた。父親も充分聞こえているはずなのに、なんの反応も示さない。正和は気まずい空気に、またダイヤルをくるくる回す。が、すぐにハムの会話は途切れて電波が空白の状態になった。
「アマチュア無線の周波数は100キロヘルツまでなの」
 小数点以下のデジタル表示は112になっていた。
「へえ、きちんと決まってるんだ?」
「電波法で細かに定められているわ」
 亜香里の言葉もさっきまでの熱気は失って、湿りがちになった。
「ええと、そろそろお袋が帰ってくるかもしれないから」
「そう・・」
 正和が腰を浮かすと、亜香里も引き止めることなくほとんど同時に立ち上がった。父親もまた、見ていたテレビを消して言った。
「またいらしてください」
 外に出てアンテナを見上げると、さっきまでとは全然違った感覚で見えた。
「これだけのものを建てると、費用も相当なものだろうね?」
「まあね。タワーの上のアンテナが14メガヘルツ用ね。横の棒をエレメントっていうんだけど、この場合は四本あるから略して四エレ八木っていうの。エレメントの数が多いほどアンテナとしての効率がよくなるのね。この高さで四エレもあると、電離層のコンディションにもよるけど世界中どこでも届くわ。もっともわたしはまだ出れないけどね」
「え、どうして?」
「14メガは1、2級の上級免許が必要なの。わたしはまだ3級だから。3級は4級に毛の生えた程度の筆記試験に、モールスの通信術が入ってくるの。4級なら誰でも取れるからそれからやるといいわ。試験を受けにいく気があるんだったら試験場まで付き合ってあげる。車だって運転するのよ。お父さんの車を借りて連れてってあげるわ」
「へえ、高校生でやるもんだね。でも、そこまでしてもらっちゃ・・」
「気にしないで。こうみえてもボランティア精神にはたけてるほうなんだから、ふふ・・」
 亜香里は冗談っぽく照れ笑いの表情で言った。両親に遊びの資格試験で付き添ってくれとはいいにくい。亜香里が付き添ってくれるというのなら、それにこしたことはない。
「試験は車椅子でも受けられるのかな?」
「もちろんよ。わたしが受けたときにも車椅子で受験してた人がいたわよ」
「じゃあ、やってみるかな。あれ?」
 アンテナから視線を下ろすとき、玄関の表札が角膜の軌跡に残った。“川村”ではなく、“鳴海”となっているのだ。
「それはお父さんの苗字。わたしのはお母さんのなの。つまり、離婚したってわけね」
「それでか・・」
「さっきは答えようがなくて、ごめんなさい。いまはまったくお空に出なくなったけど、お母さんも免許は持ってるの。お母さんとわたしは府中、お父さんは都内のマンションに住んでるわ。別に家庭を持ってね。ここはお父さんとのデートの場所みたいなものなの。マンションじゃ満足なアンテナが張れないしね。毎日いるわけじゃないから変に思ってたでしょう?」
「うん、まあ・・」
 正和にとっても決して人事ではない。というのも、父と母の仲がこの数年来うまくいっていないのだ。正和の前では露骨にけんかしてみせることはないのではっきりとはわからないが、一時は離婚寸前までいったらしく、父と母がまったく口をきかないというのが数ヶ月間あった。それがどうにか元の鞘(サヤ)に収まったはのは、正和の事故のためのようだった。
「今度くるときは、わたしが使ったテキストと問題集を持ってきてあげるわね。わたしにはもう必要ないから」
「ああ、頼むかな」
 いつのまにか西の空は、うっすらと赤みを帯びている。タワーの影が正和の家を斜めに真っ二つに割っていた。