AREA2  甦る恐怖の体験

            その1
 茶の間のテーブルでうたた寝を決め込んでいると、玄関のチャイムが鳴った。眠い目を擦りながら玄関に急ぐ。最近は杖がなくても壁伝いになら歩けるようになった。
「はい、どうぞ」
 扉を開くとそこには、女性週刊誌のグラビアから抜け出してきたかのようないい女が立っていた。ツーピースのスーツに身を固め、ウェーブのかかった長い髪をぱらりと垂らしている。一メートル以上も離れているのに母が使う鼻をつくような安物の化粧品とは違う、ほのかな香りが正和の脳天を刺激した。
「ふふ、寝てたの。こんにちは」
 女はニコッと微笑みながら、正和の全身を上から下まで舐めるように見る。特に杖と足元をじっと見詰めるのだ。外を歩いているときにはよくある光景だった。
 正和は渋い顔になって言う。
「あのう、別になにも必要としてませんので」
「しばらくね。歩けるようになったのね」
 初対面の人物にそう言われて面食らったが、よくよく見れば顔の輪郭、パッチリとした二重まぶた、どこかで見た顔なのだ。
 相手の顔色を伺いながら不安気に尋ねる。
「あれ、千華さん・・・ですか?」
「誰だと思ったのよ。二年ぶりだからしょうがないかな。近くまできたものだから寄ってみたの」
 事故から二週間して病院で会って以来の金野千華だった。
「いやあ、色っぽくなったなあ。別人のようだよ」
「ふふ、ありがと。中味はそう違わないんだけどね。正和の立っている姿を見て安心したわ」
「まだ近所を散歩するのが関の山だけどさ。ま、こんなところじゃなんだからとにかく上がってくれよ」
 友人の話しによれば、千華は学校にこなくなっただけでなく、ほとんど音信を断ってしまったのだという。正和も二度ほど電話を入れたが母親が出て、「すみません。出かけてまして、本人には連絡を差し上げるように申し伝えますので」と言われたが、千華の方からは梨のつぶてだった。それからは電話を入れることも気兼ねして、それっきりになってしまっていた。
「どうして連絡をくれなかったんだ?」
「ごめんなさい。あれからわたしなりにいろいろ考えることがあったの。しばらく独りになりたくて、あちこち旅行して廻ってたわ。でもだめね。しょせん現実からは逃げられっこないのよね」
 千華は自嘲ぎみに笑い、両肩を落とした。よくよく見れば一見しての派手な容貌からは読み取れないやつれた姿が、目尻、口許、手の甲、そこここにあった。
「千華がどうこうなったってわけじゃないし、いやなことは早く忘れて元気にやればいいのさ」
 うつむいたまま黙りこくっていると、ぽつりと言った。
「わたしもどうにかなればよかったのよ。そうしたらどんなに気が楽か・・・」
「つまらないこと言うなよ。千華だけでも五体満足な身体でいてくれて、どんなにほっとしたか」
「ありがとう」
 千華はハンドバッグからティッシュペーパーを取り出すと、鼻水を啜った。
「大学のほう、あれから全然いってないんだって? いまごろは無事卒業してるだろうになあ」
「いけるわけないじゃない。志乃ちゃんが死んで、正和と大輔はそういう身体になってしまったのよ。どの面下げて学校にいけるの。いい笑いものよ」
 志乃は大輔の恋人でほかの大学の学生だが、三人はA学院大学の同級生だった。
「ばかだなあ。千華の無事を喜ぶことはあっても、そんなふうにいうやつなんかいるわけないよ。それに同級生は卒業してしまったんだから、ほとんど知ってるやつはいないだろう。これからでもいいんだから、単位を全部取ったらどうだ?」
「後輩に何人か知ってる人がいるわ。それに授業料はとうの昔に払ってないから、とっくに除籍になってるわよ」
「そうか。おれは授業料だけは払い続けているから、これからでもやろうと思えばやれるけどさ。この有様じゃな」
「それぐらい動けるんだから、そのうちがんばっていけるようになるわよ」
「あと三年のうちに通わないと自動的に退学になってしまうからなあ。払い込んでる授業料を無駄にしたくないものな」
「この前ね、大輔のところへもいってきたの。いまはJ大学病院から新座市にあるリハビリ専門の病院へ移ったわ。知ってる?」
「ああ、お袋さんからハガキをもらったよ。少しは動けるようになったって書いてあったけど、どんな感じだった?」
「ぎこちないけど両手が動かせるようになったわ。お見舞いに持っていったケーキを、ゆっくり口に運んでたわね。寝たきりに比べたらいくらか増しだけど、上半身はまだ自分で起こすことができないのね。蟻が進む程度によくなってるとは言ってたけど、先は長いわねえ」
 千華は窓の外を見遣って深い溜息をついた。
「電話はできないのかな?」
 大輔とは正和がJ大学病院から転院するとき、ベッドに仰向けになったまま話すのも億劫そうなところを一言か二言、言葉を交じわしただけで、それからは会うことも話す機会もなくしていた。
「うーん、まだ一人で車椅子に乗るのもむずかしいようだからね。でも、それ自体をリハビリだと思ってやってみたら案外早くよくなるかもね。今度いくことがあったら伝えておくわ」
「自分で車椅子を使って自由に動けるぐらいにまで回復したら、いうことないんだけどな」
「そこまではむずかしいと思う。きっとベッドからは一生離れられないと思うわ」
「冷たいんだなあ」
「違うわ。大輔のお母さんが言ってたの。脊髄の神経が治る見込みはないし、家族の手には負えないしで、たぶん死ぬまでこの病院か施設のお世話になるだろうって」

黄白色の小花

 それは正和も予測しないことではなかったが、そこまではっきりした見通しを聞くと、大輔がなんとも気の毒に思えてくる。そしてそれは、正和自身の姿とオーバーラップしてしまうのだった。
「で、千華は学校もいってなくていまはどうしてるんだ。なにか仕事でもやってるのか?」
「ええ、大学をやめてまで親に食べさしてもらうわけにはいかないでしょう。いまは小金井の実家を出て原宿のマンションに住んでるの。これるときがあったら遊びに寄ってね」
 千華はハンドバッグから一枚の名刺を取り出すと、正和に渡した。
「へえ、すごいところに住んでるんでなあ。相当高いんだろう。あれ・・、これは普通の電話番号と違うな?」
 一見東京の市外局番のようだが、030の三ケタからはじまる番号なのだ。
「ふふ、これよ」
 千華は得意そうにハンドバッグから小型の携帯用電話器を取り出した。「これだと家にいなくてもどこでも通じるでしょう。外に出てることが多いから、けっこう重宝してるの」
「ふーん、確か携帯電話の料金は普通のよりずっと高くつくんだろう。仕事はなにをやってるんだ?」
 千華はまたハンドバッグに手を突っ込むと、辺りをきょろきょろ見渡した。
「灰皿ないかしら?」
 タバコを吸わない正和は、先ほどまでつまんでいた豆菓子を入れておいた深皿を差し出した。
「ないからこれを代わりに使って」
「ふっー」
 足を組み、煙りを窓に向かって吐き出す様はなかなか堂に入っている。
「いつごろから吸ってるんだ?」
「さあ、一年以上になるかしら・・」
「ちょっと見ないあいだに変わったなあ」
 千華は焦点の合わない瞳で、遠くをぼんやり見ながら言った。
「女が独り生きていくってことは大変なのよ。マンションの家賃が払えなくなったらすぐにでも追い出されちゃうし、食費だって化粧代だってばかにならないわ。やれることはなんでもやらなきゃ食べていけないわ。小ぎれいなことを並べていたらひもじい思いをするだけよ」
 千華のギロッと凄む目に正和は視線をそらし、吹上げられた煙りを追いかけた。はじめは一筋の形を成していたものが、すぐに脹れていって除々に濃淡の区別がつかなくなり、部屋中に散らばるころにはその存在さえわからなくなる。
「ふっ、煙りみたいなもんだな」
 千華は笑顔とも怒りとも区別のつかぬ表情に頬の筋肉を歪めた。
 しばし重い沈黙が二人を襲う。クォーツ目覚し時計の秒針音が『カチ、カチ』と、やけに耳に響く。四時の電子音が『ププッ』と鳴ったとき、二人が同時に「あの・・」と言った。
「ふふ、そろそろいかないと。ああ、そのままでいいわ。そのうちまたくるわ。これまでは敷居が高くてなかなかこれなかったけど、もう平気だわ。それじゃ」
 正和が離れていく千華の背中に向かって言った。
「千華。おれとか大輔みたいな身体になったわけじゃないんだから、もっと違う生き方があると思うけどな」
 千華はすぐには応えず足を二歩踏み出し、背中を見せたまま聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で捨てゼリフを残した。
「あげられるものなら足の一本ぐらい、いつでもあげるわよ」
 正和も玄関の閉まる音が聞こえると、吐き捨てるようにつぶやいた。
「フン、人の気も知らないでいい気なもんだ」
 事故のことを記憶から消しさることはできないが、このごろはやっと気持ちの切り換えができそうな気がしていた。それが昨日のことのようによみがえってくる。