AREA2  甦る恐怖の体験

            その2
 大学の文化祭があった日のことだ。学校で騒ぐだけではもの足りず、もう少し飲もうということになって、正和と千華は大輔のマンションに立ち寄った。部屋で片付け事をしていた大輔の女友だち福田志乃と合流し、四人で息統合してビールとウィスキーを飲み、ほどよく酔いが回ってきたころのことだ。
「ねえ、少し酔ってきたから風にあたりにドライブにいきましょうよ」
 千華が一気にビール飲み干して言ったその言葉に、正和と大輔はためらうことなく、
「よし、いこう」
 と言って立ち上がった。大輔にまとわりつくように寄り添っていた志乃だけは渋ったようすを見せたが、大輔に肩を抱き上げられるようにするといやいやながらも立ち上がった。
 悲惨な事態を招いたのは、それから十分とたたずしてだった。
 大輔がハンドルを握る車に助手席には志乃、その後ろに正和、横には千華が座った。大輔には悪のりすると車をレース張りに走らす悪いクセがある。エンジンが高回転のままアクセルとブレーキペダルをヒール・アンド・トウで操つられた車は、クラッチとブレーキのけたたましい摩擦音をたてながら、マンションの駐車場から車道に飛び出した。そのままの勢いで住宅街の四メーター道路から対向四車線の本道に右折したところで、地獄は待ち構えていた。
 スピードののった車は外側に膨らみ、左側の通行車線に収まることなく歩道に乗り上げ、あろうことかコンクリートの電柱に激突したのだ。車の左側にめり込んだ電柱は、車体もろとも助手席の志乃を襲った。即死だった。それこそ独り住まいの無精な男が寝る、せんべいブトンのようになってしまったのだ。運転席の大輔もハンドルが腹部に食い込み、内臓が破裂し、衝撃で脊髄をも損傷させた。何日か生死の境をさ迷った後、どうにか一命だけはとりとめたが、その日以来ベッドから起き上がるのも容易ではない身体になってしまった。前部座席にはエアーバッグが装備されていたが、大輔の顔をある程度守りはしたものの、車体そのものがつぶれたのだから、たいした役にはたたなかった。
 正和自身は、志乃のシートが後ろに押し出され、自分の座ったシートとのあいだに左足を挾まれて足首から下を押しつぶされてしまった。右足はだらしなくシャフトハウスの上に投げ出していたからいいようなものの、品よく両足を揃えて座っていたなら、両方とも失くしてしてしまっているところだった。
 その事故のようすは正和の記憶にはない。あとから両親や友人から聞いたことなのだ。正和が覚えているのは四人で飲んで車に乗るところまでだった。事故が起きた瞬間から意識を失ったらしく、意識を回復したのは事故から三日経過してかららしい。らしい、というのは奇妙なことに、それから一週間のあいだのことも記憶が抜けているのだ。見舞いにきてくれた友人との会話、警察官からの事情聴取など、母が言うには、足の痛みに喘ぎながらもきちんと話していたというのだが、正和の脳のメモリー回路にインプットされることはなかった。
 運転席の後ろにいた千華は、顔や身体を運転席シートの背もたれに強く打っただけの、奇跡的に軽傷で済んだ。とはいっても車がツードアタイプなところにきて、前部座席がつぶれたので車からは出るに出られず、レスキュー隊がドアをこじ開けて大輔を救出し千華を引き出すまでの一時間近くのあいだ、千華は意識を失うこともなく修羅場の中で気が狂わんばかりに泣き叫んでいたのだという。
 千華は事故から二ヶ月が経過したとき、一度正和のところにも見舞いにきたが、ベッドの横に座ったきりろくすっぽ口もきかなかった。正和が話しかけても下を見つめたままで、その視線は焦点が定まらず宙を舞っているようだった。
 千華との興奮も冷めやらないまま机に向かっていると、まるで示し合わせたかのようにまたチャイムが鳴った。出てみると学校帰りだろうか、制服姿の亜香里が立っていた。

じゃがいもの花

「いまの人、きれいな人ね。これ?」
 亜香里はニヤけた顔で小指を立ててみせた。
「ち、違うよ。大学のときの同級生さ。ただの友だちだよ。見掛けと違って性格はあまりいい子じゃないんだ」
 すると亜香里は顔を曇らし、目付きを横に流して言う。
「人のことをとやかくいえた性格じゃないと思うけどな。はい、これ。よく読んで勉強してね」
 カバンから取り出したのは、昨日約束した初級アマチュア無線技士のテキストと問題集だった。
「無理しなくてもよかったのに・・」
「善は急げっていうじゃない。それとこれが受験申請書。申し込んでから試験日までは二ヶ月あるから、すぐにでも申し込みをするといいわ。二ヶ月あれば充分でしょう」
「いやあ、電気のことなんかさっぱりわかんないからなあ」
 と満更でもない顔で言う。
「過去問の問題を四肢の順序を適当に変えて出るぐらいだから、わかんないところは丸暗記すればいいのよ」
「うん」
 亜香里の制服姿がいまの正和には新鮮でまぶしい。つい、しげしげと頭から爪先まで眺めてしまう。
「なによ。中年のおじさんが見るような目で見ないでよ」
「いいもんだなあ、真近で見る白いセーラー服も・・」
「欲求不満じゃないの。でも、一日中家の中でうじうじしてるんだからしょうがないか」
 この生意気なものの言い方さえなければほんとにかわいい子なのに、と思う。
「悪かったね」
「うふふ、そのためにも早くハムの免許を取って気分替えをしないとね」
「コーヒーでも入れるから上がっていきなよ」
 するとまた上目遣いに正和を見て、いたずらっぽく笑みを浮かべて言う。
「アブナイからやめとくわ」
「・・・!?」
 正和のふてくされた態度に、亜香里が「キャハハ」と笑い転げる。
「冗談よ。これから学校なのよ。わたしは昼間部じゃなくて夜の定時制なの」
「じゃあ、昼間は働いてるの?」
「いいえ、家でのんびりしてるわよ。お勉強したりお母さんがブティックをやってるからお店の手伝いをしたりしてるわ」
「そう・・」
「少しづつでも勉強してみて。わからないところがあったらあとで教えてあげるから印をつけとくといいわ。じゃあね、遅刻しちゃうから」
 と偉そうな口を叩いて、亜香里は小走りに駆けていった。正和は口をあんぐり開けながら、角を曲がって見えなくなるまで亜香里の後ろ姿を見送った。
 さっそく机に向かって問題集を捲ってみる。まずは電波法規。
『問・アチュア局の免許の有効期間は、次のどれか』
『問・電波法に規定する“無線局”の定義は、次のどれか』
 ふむふむ、とうなづきながら見ていく。初めて見るのだからわかるはずもないが、法令は要するに暗記すればいいのだからどうということはない。次に無線工学のページを開く。
『問・小さい振幅の信号を、より大きな振幅の信号にする回路は、次のうちどれか』
『問・FM受信機の周波数弁別器の働きについて、説明しているのはどれか』
 今度は思わず、
「なんじゃこりゃ?」
 とつぶやいてしまう。まるでチンプンカンプンだ。小学生が合格するとはいっても、それなりに勉強してのことのようだ。いい加減な気持ちで手を抜いた勉強で受験しようものなら試験場で大恥をかいてしまう。本腰を入れてテキストを一から読み始めるのだった。