AREA3  自殺

            その2
「ああ、もうこんな時間ね」
 亜香里が帰る気配を見せたとき、電話のベルが鳴った。こんな遅くに誰だろうと思いながら受話器を取る。両親がいないとき、正和がいちいち居間の電話の前まで動くのは大変だろうと、正和の部屋にも電話線をひいてくれたときから、受話器を取るのは正和の役目になっていた。
『千華です、こんばんは・・。元気?』
「ああ、このあいだはどうも・・」
 正和は亜香里に背を向けて言った。亜香里がその背後から耳元に顔を近づけ、小声で言う。
「この前きてた彼女でしょう?」
 ああ、と正和が首をこっくりうなづくと、亜香里は手を上げ指先をくねくねさせて立ち上がろうとする。正和は亜香里の袖口を引っ張って引き止め、送話口を押さえながら言う。
「大学時代のただの同級生って言ったろう。気にするようなことじゃないさ」
 亜香里は苦笑して腕時計を指差したが、正和は袖口を掴んで離さなかった。
『この前帰るときに言ったこと、怒ってる?』
「なにも気にしてないよ」
『ウソ。そういう言い方は怒ってる証拠よ。当て付けに言ったわけじゃないの。正和が本気でそれを望んで、医学的にも可能だというならほんとにそうしてもいいのよ』
「くだらないことを言うなよ。そんなことできるわけないだろう」
『ということは、手術が可能ならほしいということね。じゃあ、いつでもいいから持ってって!』
 と、きんきら声で言い放った。
「そんな意味じゃない。女のか細い足を取り付けてどうするんだ。冗談にもそんなことを考えるわけがないだろう。おかしいぞ、千華・・・・。酒が入ってるのか?」
『ちょっぴりね。きょうは早めに店終いしてのんびりしてたとこなの。夜はいやね。お酒がないと独りじゃいれないわ』
「だったら実家にもどればいいじゃないか。女のひとり暮らしなんて、ろくなことはないぞ。マンションから例の携帯電話を使ってるのか?」
『電話はそうだけど、ホテルからよ。遠くに東京タワーがよく見えるわ。ライトの縁取りがきれい。真下を見てると車のヘッドライトがどんどん動いていくの。人間なんてこれっぽっちも見えやしないわ。ちっぽけなものね。あくせくやって、どうして人間やってなくちゃいけないのかしら』
「そういうのは、ひところのおれが言うセリフだよ。千華がそんな投げ遺りなことを言うことないだろう」
 それには応えず、「ふっー」と大きな吐息をついてから言う。
『大輔が志乃ちゃんを連れてきたときのこと、覚えてる?』
 いまごろなにをそんなことを、と思いながら相槌を打つ。
「ああ・・・」
 入学前のオリエンテーションのときのことである。正和の高校からA学院大経済学部に入ったのは正和一人だったので、知った顔もなくひとりポツンと座って事務官の説明に聞きいっていた。ところが教科の履修のことがよくわからず、誰かに尋ねようと思って後ろを振り向いたら頭を掻いていたのが大輔だった。大輔もよくわからず、さらにその横にいた千華に訊く羽目になった。それが三人の最初の出会いだった。入学式が済んでからは自然と八人ほどのグループになりはしたが、中でも三人は行動を共にすることが多かった。
 勉強らしい勉強もせず楽しい一年が過ぎようかというころ、三人でディスコにいく約束の場所に、大輔はなんの前触れもなしに志乃を連れて現れた。聞けば、半年も前から付き合っているのだという。それまで正和はまったく気付かず、千華に訊いても知らなかったという。うまいことをやったな、と思うと同時に、男二人女一人という不釣り合いな付き合いから、よくやってくれた、とも思ったものだった。それからは四人いっしょに遊ぶことが多くなり、控え目で口数が少なく面倒見のいい志乃は、なにかと三人の世話役になった。活発で言いたいことをポンポン言う男勝りの千華とは対象的な存在だった。
『あのとき、わたしがどれだけ悔しかったかわかる?』
「え・・?」
『なにもほかの大学の女と付き合わなくたっていいでしょう。たとえわたしじゃなくたって、A学院大にいい女はごまんといるじゃない。しかも陰に隠れてこそこそやらなくたっていいじゃない。情けないやら惨めなやらで、腹が立ってしょうがなかったわ。志乃ちゃんの顔は見るのもいやだったけど、いっしょにいればいつかは大輔の目をわたしの方に向けられると思ってたわ。それが全然じゃない。志乃ちゃんとばかりべたべたして』
「ふうん・・・」
 これはまた意外な話しだった。千華が大輔にそんな想いでいたとは露ほどにも知らなかったのだ。ましてやそれほど志乃が嫌いというのなら、はじめから誘いに乗らなければいいのに、と思う。
 千華は半分涙声になって、鼻を啜りながら話しを続けた。
『正和、ごめんね』
「な、なに言ってんだよ」
 震える唇でそう言いながら正和は受話器を左手から右手に持ち換え、手の甲で冷汗を拭った。後ろを振り向く正和に、亜香里は眺めていた雑誌を閉じにっこり微笑んだ。
 大輔が志乃を連れてきて数ヶ月もたったころのこと、大輔が一切の授業に姿を見せなかった日、千華と二人だけで帰る駅までの道すがらそれとなく映画に誘ったことがある。だが、「わたし、きょうは早く帰らないといけないから」とにべもなく断られた。それからも何度か、大輔が授業をさぼったときを見つけてはデートを申し込んだことがあったが、すべて体よく断られた。四人の友達付き合いを大事にしようという配慮からだろうと思い、特別落ち込むようなことはなかったが、とんだ道化役を演じていたものらしい。
『あのときだってそうよ。お酒に寄ったふりして、二人で寄り添っていやらしいったらありゃしない。わたしたちの前なんだから、少しは遠慮ってものがあっていいはずでしょう。我慢がならなかったからドライブに誘い出したのよ』
「ああん?」
 受話器が耳から肩にずり落ちた。
『酔っ払い運転でどうにでもなれってね。ほんとにそうなっちゃった。もう怖くて』
「・・・・・・!?」
『それに車がぶつかる瞬間、なにを考えたと思う。左側がぶつかるのがわかったから、志乃ちゃんがつぶされて死んでしまえばいいって思ったのよ。そしたらそれもそのとおりになっちゃった』

スポーツカー

 正和は身体がブルブルいうのを押さえ切れず、受話器が机の上に転げ落ちた。それを亜香里が首と左の肩にはさめるように置いた。しっかり握り直すと吐き捨てるように言う。
「オカルト映画じゃあるまいし、ただの偶然さ」
『いやな女でしょう、わたしって・・・・。志乃ちゃんになんて言って謝ったらいいの。きっとあの世で、あんたも死になさいって言ってると思うわ。正和だってほんとはわたしのこと、恨んでるんでしょう?』
「ばかなこと言うなよ。あれは四人が合意の上でいっしょに出ていったんだから、それぞれの責任さ。それに運転したのは大輔だぞ。千華ひとりの責任てことじゃないさ」
『どうしてわたしだけなんともなかったの。どうして死ななかったのよ。う・・う・・・・』
 千華は鳴咽をあげて泣きじゃくった。テーブルでも叩いているのか、音もドンドン鳴り響いてくる。亜香里も心配そうに受話器に耳を近づけてくる。
「考え過ぎだよ。この前も言ったじゃないか。おれたちは千華だけでも無傷でいてくれたのがうれしいくらいだって」
『やめて! 気休めなんか言わないで! 誰にもわたしの気持ちなんかわかんないのよ。うっ・・・・』
 わめき散らす声が正和の耳をつんざく。
「千華、どこのホテルにいるんだ?」
 電話口からはしばらく泣き声だけが聞こえてきた。二度、三度と訊いても千華は答えようとしない。コトリと音がすると、泣き声も聞こえなくなった。
「まいったなあ」
「ちょっと普通じゃないわね。疲れてるのよ、きっと」
「でもなあ、五体満足な?」
 亜香里が口に指を当てて正和を制した。
『このホテル、以前タレントの女の子が飛び下り自殺をしたことがあるのよね。鳥になったみたいで気持ちいいのかしら? 下を見てると吸い込まれそうになってくる・・・』
 亜香里に目配せして、知っているかを尋ねる。が、亜香里は首を横に振り、すぐメモ用紙に「電話番号?」と記した。怪訝に思いながらも、千華からもらった名刺を引出しから取り出すと亜香里に渡した。すると亜香里はろくに確かめもせず、名刺を手にしたままF1のレーシングカー顔負けのスピードで飛び出していった。
「縁起でもないこと言うなよ。そんなことして志乃ちゃんがほんとに喜ぶと思ってるのか。そりゃおれも何度も死のうかと思ったけど、こうしてがんばって生きてるんだからさ」
『キャハハ、やだあ、わたしが自殺するとでも思ってるの。いまがいちばんの女盛りよ。若いピチピチした肉体を、どうして冷たいコンクリートに叩きつけなくちゃいけないの。やめてよ、アハハハ』
 それまで泣いていたのを忘れてしまったかのように、大声で笑い飛ばした。
「ならいいけど・・。変なことばっかり言うものだからさ。あんまり心配かけるなよ」
『こんな女でも心配してくれるの?』
「当たり前だよ。友だちだろう」
『ありがとう、正和・・。う、う、うえーん・・・・』
 笑い声は一転してまた泣き声になった。
「なあ、どこのホテルにいるんだよ?」
『その友だちを死なしてしまったのよ。やっぱりわたしには生きてく資格なんてないわ』
 正和の問いには答えず話しは逆にもどった。
「だからさあ、あれはみんなが望んでやったことで千華がなにを思おうと、物事っていうのは一つのことに向かってひたすら突き進んでいくんだよ。誰かがコントロールできるようなものじゃないんだ。それともなにか、千華は超能力者とでもいうつもりか?」
『そんなことないけど、怨念が願い事を成就させるって本に書いてあったもの。あれはきっとそうだったのよ』
 ここまで聞くとさすがに、いまどき丑三つ時参りでもあるまいし、とばかばかしくなってくる。
「千華がそんな愚かだったとは思わなかったな」
『だからどうしようもない女だって言ってるでしょう。う・・』
「そ、そんな意味じゃないよ」
 口を滑らしたひと言であの世にいかれたのではたまったものではない。正和なりに必死に、あの手この手をつかってはおだてあげた。
 十分もして亜香里がもどってきた。にっこりして、指で丸をつくって見せる。
「とにかくきょうはべろんべろんに呑んで、ゆっくり休むといいよ。明日になったらまた電話くれよ。こっちからも電話するからさ。じゃあ、これで切るぞ。おやすみ・・」
 電話であることのもどかしさと重圧感に耐えられなくなって、まだグズっているのを一方的に会話を終わらせた。それでも気になって受話器を耳にあてたままにしていると、千華は静かに電話を切った。