AREA4  新たな挑戦

            その1
 平坦な舗装道路は比較的楽に歩けるようになったが、やはり階段はまだきつい。右足を上げるとき、義足が接触する肉の部分に必要以上の加重がかかり、ピリッとした痛みが走る。握り棒を掴みながら一歩一歩確かめるように歩く。途中の踊り場で一息つくと、また一段づつゆっくり昇りやっとホームの上にたどり着いた。
 高いところに立つと軽い目舞いを覚える。しかも意地の悪いことに向い側の下り線に快速電車が到着し、電車からの風圧が正和の身体をゆらゆらっとさせる。正和は慌ててホーム上のコンクリート壁に掴まった。
『つつじヶ丘、つつじヶ丘、お忘れ物ないようお降りください』
 上り退避線には急行電車通過のために各駅停車の電車が止まっていた。風圧は電車が走り去るときにも起こる。快速電車がいなくなるのを待って、たかだか電車に乗るというだけのことに息を整え、緊張の糸を張り詰めてホームの縁に立つ。
 そのとき快速電車が発車していったあとの下り線ホームに、ジーパン姿の女が一人立っていた。正和をじっと見てくるのだ。ときどきじろっと見ていく人に出会うのはめずらしくないが、気にかかって正和も見返すと、女はニコッと微笑んで右手を上げた。
「ああ、なんだ・・」
 千華だったのだ。足早に階段を下り、地下通路を抜けて上りホームの階段を一気に駆け上がってくる。二人は真近に立つと伏し目になって顔をほんのり紅く染めた。
「この前はありがとう。行き違いにならなくてよかったわ。どこへいくの?」
「隣りの仙川までね。電車に乗る練習さ。しかし、女は髪を切っただけでガラッと変わるもんだなあ」
 そこには大学時代の、昔の姿にもどった千華がいた。
「ええ、やっと気持ちの整理がついたの。いろいろ心配かけたけど、もうだいじょうぶ。これからはしっかり大地に根をはって生きていけそうだわ」
 千華は正和の右手をとり、ぎゅうっと握り締めた。
「そうか。まごまごしてるとおいてかれそうだな」
「そうよ、この電車に乗るんでしょう。さあ、乗りましょう」
「ここが苦労するとこなんだようなあ」
 本線の側のホームはレールが直線なのでそれほどホームと電車との隙間は空かないが、退避線はカーブを描いているため、どうしても電車の乗降口とは若干広い間口ができる。一歩足を出しまちがえると足を踏み外しかねないのだ。
「よいしょっと。なんでもないじゃない」
「そりゃ千華がいっしょだからさ。ひとりで乗ると心細くてだめだよ。まだ三回目ってこともあるけど」
「がんばってるわね。この分だったら近々学校にもいけそうじゃない?」
「ああ、来年四月からまた通おうと思ってさ。このままだとただ年取って死ぬだけだものな」
「ふうん、よかった。わたしもね、夜のお仕事はきっぱり止めたの。長く続けるようなことじゃないでしょう。マンションはおととい引き払って小金井の実家にもどったわ」
「ああ、それでか。昨日電話したら、『現在は使われておりません』ていうテープが流れてたものな」
「携帯電話は人に譲っちゃったわ。もう必要ないものね。それでね、わたしも四月から学校に通うことにしたのよ」
 駅のアナウンスが響く。
『上り線、急行電車が通過しまーす。白線まで下がってお待ちください』
「どこの学校・・・」
 と言いかけたところで、あずき色の帯が入ったアイボリーホワイトの急行電車が、轟音をあげて通過していった。「A学院大は退学になってるんだろう。ほかの大学か?」
「看護学校よ。看護婦の資格をとるつもりなの」
「へえ、なんでまた急に看護婦なんかに?」
 扉がガタンと閉まると、電車はゴトゴトいって動きはじめた。
「正和と逢った次の日、大輔のところにいってきたの。ずっーとお母さんが付きっきりでね。いつかはお母さんもめんどうみてあげられなくなる日がくると思うのね。誰かが必要でしょう。わたしが看護婦になって付いててあげようと思うの」
「そういうことか。でも、いろいろ大変だと思うぞ」
「覚悟してるわ。正和・・、ごめんね」
 千華は正和の手が痛くなるほどに強く握った。
「関係ないって言ったろう」
 電車は話しをしている間もなく仙川の駅に着いた。正和が腰をあげようとすると、千華が引っ張り込むようにして言う。
「ね、わたしがいるんだから桜上水あたりまでいってみましょう。少しでも遠い方が訓練にもなるでしょう」
 乗り込んできた買い物袋を下げたおばさんが正面に座り、二人を訝しげな目で見る。正和が千華の手を振り解こうとすると、千華は逆に両手で握り、中吊りの広告に視線をやって素知らぬ顔で言った。
「ほっときなさいよ。こういうことをできる世代じゃないから僻んでるのよ」
「でも・・・」
 正和が渋るのを無視して話しを続ける。
「病院の事務長さんにお会いして、看護婦の募集を毎年やってるか訊いてみたの。そしたら常に手不足でいつでもきてほしいって。最近看護婦不足は社会問題になってるでしょう。あそこの病院も例外じゃないらしいのね。準看になったらすぐにでもきてほしいって言ってたけど、わたしは正看の資格をとってからやるつもりよ。看護学校への提出書類のことがあるから高校にもいってみたの。一応試験はあるらしいんだけど、なにしろ看護婦不足でしょう。高校時代の成績がよほど悪くないかぎり、ほとんど入れるみたいなのね」
「さすがに手回しがいいな」
 きびきびしたようすは、完全に大学時代の千華にもどっていた。おばさんへの当て付けというわけでもないだろうが、千華はハンカチを取り出すとそっと正和の手の平を拭った。
 グリーン色した各駅停車の電車は、高速で走る必要がないためか古い型のものが使われている。いまでは当たり前になっているエアー式スプリングとは違い、旧式のコイル式スプリング仕様のために横揺れが激しい。ひとりならシートの端に座ってしっかり握り棒に掴まっているところだが、きょうはどっかり真ん中に腰を下ろしていた。向いのおばさんの目があるとはいえ、身体がふらふらするのを押さえるのにぎっちり千華と手を握っているためか、じんわり汗ばんでくるのだった。

電車電車

 電車は芦花公園を過ぎ、環状八号線を跨いだ陸橋を通り過ぎる。
そのときなんとはなしに車の列が目に止まった。千華の視線も正和と同じ方向をたどっている。
「車の運転はしてるの?」
「いいえ、とても怖くて運転なんかできないわ。それどころか車に乗るときは、助手席と運転席の後ろは怖くて乗れないの。だから必ず助手席の後ろに乗るわ」
 千華は間をおいてから目をつぶり、「ふっー」と大きく息を吐き出した。
「去年免許の書き換えだったんだけど、そのまま失効してしまったなあ。もったいないことしたよ」
「ああ、それならだいじょうぶよ。病気とか怪我の場合は期間が過ぎても更新できる決まりになってるの。きちんと動けるようになったら試験場にいって審査を受けるといいわ。オートマチックの限定免許になるでしょうけど、更新できるはずよ」
「へえ、知らなかったなあ。じゃあ、いくだけいってみるかな」
 話しのついでに言ったものの、先は長そうだった。
 電車が上北沢を出て桜上水が近づいてきたので、正和が降りる気配を見せるとまたもや千華が言う。
「せっかくだから新宿までいきましょう。この電車は新宿で折り返し運転なんだから、このまま乗ってれば黙っててもつつじヶ丘までいくわ。大学へは新宿で乗り換えしなくちゃいけないんだから、いまのうちから鍛えておかないと」
「そりゃそうだけどさ」
 正和は渋々背もたれに寄りかかった。
 電車が桜上水の退避線に入る。ほどなく特急電車が地響きをたてて通過していった。各駅停車発車合図の電子ホンが鳴り、階段を駆け上がってきた数人の高校生が閉まりかけた扉の前に立った。すると扉が魔法の扉のように、また『プシュッー』という音をたてて開いた。四人の高校生は無遠慮にどやどや入ってくると、正和たちの斜め向いのシートに腰を下ろした。
「あぶなかったなあ。どら見せてみろよ」
 一人がそう言うと、メガネをかけた高校生がカバンの中から一台のハンディトランシーバーを取り出した。まだ購入したてらしく、さかんにほかの三人に自慢している。
「やってみせろよ」
 という仲間の催促にメガネの高校生は照れて、
「電車の中じゃ電波が外に出ていかないしさ。新宿に着いたら都庁の展望台からクラブの連中とやることになってるからさ。そのときでいいだろう」
 と、しまりのない顔で言った。
 そうこうしている間にも電車は下高井戸に着いた。
「ここもしばらく見ないあいだににぎやかになったなあ」
 正和は身体をくねらせて、線路沿いの商店街を見渡した。
「ふーん、わたしはあまり京王線に乗ることがないからよくわかんないけど、お店が増えたの?」
「ああ、そこの三階建ての白いビルとか、向こうのパチンコ屋なんかはなかったよ」
 外を見遣ったままの正和に、千華が太股を突いた。買い物袋を下げたおばさんがやっと立ち上がったのだ。扉が開き、降りる間際に二人に一瞥をくれるのを忘れなかった。
「陰険な性格・・」
 千華が、「くすっ」と笑いながらつぶやいた。おばさんを視線で追いかけていると、おばさんは急に身体を反転させてもどってきた。二人は一瞬、こちらの話しが聞こえたのかと思ってドッキリしたが、そうではなく、シートにおいたままのハンドバッグを取りにもどったのだった。
 とそのとき、横に座っていた野球帽を被っている男がやおら立ち上がると、そのハンドバッグを奪い取って出口に向かって駆け出した。
「ドロボウッ!」
 おばさんはありったけの大声を出し、男のあとを追いかける。ところが無情にも扉が閉じて腕を挾まれてしまった。それでもおばさんは気丈に、
「どろぼう、誰か捕えて」
 正和が咄嗟に追いかけようとすると、千華が腕を引っ張って言った。
「正和には無理よ」
「ん、ああ・・」