AREA4  新たな挑戦

            その2
 居合せたほかの乗客はすぐには事態の要領が飲み込めなかったらしく、車内は一瞬静寂に包まれた。動作が早かったのは高校生たちだ。リーダー格の男子生徒が二人に向かって指示する。
「柵を越えて逃げていったぞ。おい、追いかけろよ」
 二人は言われるがままに再度開いた扉から飛び出していき、その勢いでひったくり男がしたように、柵をひょいっとばかりに乗り越えると線路沿いの道路に追いかけていった。
「トランシーバーでクラブの連中を呼んでみろよ。警察に連絡してもらってさ。連絡をとりながらおまえもあいつらの後を追いかけるんだよ」
 リーダー格の男子生徒はそう言うと後方へ走り去った。あとに残されたトランシーバーを持った高校生もホームに出て、仲間を呼びはじめる。
<JS1YD×。こちら7K1PR×。入感ありますか?>
<おお、早かったな。都庁から出してるんだな?>
<いや、それどころじゃないんだ。下高井戸の駅でひったくりがあってさ。海藤と鈴野がその男の後を追いかけて線路沿いの道路を新宿方向にいったよ。それでさ、そのことを警察に通報してほしいんだ。おれもこのまま後に続くからそのままワッチしておいてくれよ>
<よし、わかった。新宿方向だな。捕えたら警視総監賞ものだな>
 トランシーバーの高校生はその返事を確かめると、やはり柵をひらりと乗り越え道路を走っていった。
 おばさんはショックからか、ホームの上に座り込んでしまっていた。もどってきたリーダー格の高校生と車掌が、おばさんを両側から抱き抱えてそばのベンチに横にならせた。
「横に座っていた男が、いきなり私のバッグを取って。いま、この人たちが追いかけていってくれて・・・」
 と、おばさんは息も絶え絶えになって説明した。
「ええ、ええ、わかってます。いま駅員が警察に連絡してますからね。心配いりませんよ。そのまま楽にしててください」
 電車は数分間、警官がやってくるまで止まっていたが、『長らくお待たせしました。発車します』という車内アナウンスとともに動き出した。左側の住宅街の道路を注意深く一本一本見ていくが、犯人と高校生たちの姿はどこにも見当たらなかった。
「逃げていってしまったみたいね」
「無線を持った高校生がいたから、あれで逐一警察に連絡取れれば案外早く捕まるかもしれないな」
「バチが当たったのよ」
 千華が肩をすくめて言った。
「ふふ・・。しかしああいう使い方があったとはな」
「あれはパーソナル無線とかいうやつ?」
「いや、パーソナル無線はコールサインを言ったりはしないさ。これさ」
 正和はポケットからハム試験の問題集を出して見せた。疲れて休むとき、ただ座り込んでいるのも能がないので、少しでも勉強になればと持ち歩いているのだ。

HF八木

「初級アマチュア無線技士問題集。正和が受けるの?」
「ああ、実をいうと明日試験なんだ。家の中に居ながらにしてあちこち交信できるっていうんで、隣りの人に勧められてさ。なんだったら千華もやってみないか?」
「そうね・・・・」
 それなりに興味はあるらしく、問題集を自分の手にとるとペラペラ捲った。「けっこうむずかしそうだけど、誰でも受験できるものなの?」
「年齢とか学歴は一切関係なしさ。おれも最初はむずかしいと思ったけど、やってみればどうってことはないな。なにしろこの問題集に出てる問題がそのまま出るんだ。小学生でも取ってるらしいよ」
「国籍にも関係ないの?」
 突飛な質問につい千華の顔を覗き込むが、千華は何事もないかのように問題集に見入っている。
「ああ、関係ないと思うよ。世界中の国でやってるんだからさ」
「世界中っていうからには、当然東京と埼玉でもやれるわけね?」
「もちろんやれるさ」
 すると千華は急に正和の方を向き直り、目を輝かして言った。
「それじゃ大輔にも合うんじゃない。手も使えるようになったし、機械の操作ができればいいわけでしょう」
「おおっ! そうだよ、どうしてそれに気がつかなかったのかなあ。車椅子でも受験できるっていうしさ。アンテナを張らなくちゃいけないけど、なんとかなると思うよ。病室は何階にいるんだ?」
「ええと、八階だったかしら」
「それほど高いところにいるんなら、窓ガラスに吸盤式のアンテナでも取り付ければいいさ。車でそういうふうにしているのを見たことがあるんだ。公衆電話のところまでいかなくても、ベッドの脇にでもトランシーバーを置いとけばいつでも話せるしなあ」
「そうよね。わたしも取るわ。看護学校の受験勉強はほとんど必要ないし、大学受験のときみたいに猛勉強でやってみるわ。明日試験が終わったらいろいろ教えてね」
「ああ・・」
 二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 電車は笹塚を出ると地下道に入り、とたんに轟音をたてて走った。
「新宿に着いたら街に出てみましょうか?」
 千華は耳元にくっ付いてしまうほどに口を寄せ、にやついた顔で正和を探るように言った。
「そこまではいいよ。ここまでくるのだって大変なんだから。除々に少しづつ時間をかけてやらないと」
 そう言ってるあいだにも、電車は京王新宿駅の地下構内に入っていく。路線はJR線と小田急線に平行に並ぶせいで甲州街道からほぼ直角に曲がっている。急角度で曲がる線路は車輪とレールに酷使を強いる。レールと車輪の擦れ合う音が激しく、『キィ、キィーン、キィ、キィーン・・・・』と、にぎやかに音をたてながら電車はゆっくりと3番線に入っていった。
 『プシュー』と圧搾空気が抜ける音がするとまず左側の扉が開き、もう一度『プシュー』といって反対側の扉も開いた。
「さあ、終点よ。降りましょう」
 千華が正和の手をとって言った。
「えっー、このまま乗っていくんじゃないのか?」
 驚く正和にかまわず手を引っ張る。
「なに言ってんの。乗り換えもなしじゃ、リハビリにならないわよ。京王新線で快速電車に乗って帰りましょう。その方が早くていいでしょう」
 同じ京王電鉄の新宿駅とはいっても、新線駅のホームまでは階段を昇り降りしなくてはならないのだ。
「千華の専門は理学診療科がいいよ」
「そうね。それも看護婦じゃなくて理学療法士でもやろうかしら、ふふ」
 ホームに降り立つと、雑踏特有のざわついた雰囲気が正和を覆う。久しぶりに味わうチリが舞ってむせかえるような、それでいてなつかしい空気の味だった。