AREA4  新たな挑戦

            その3
 あくる日の試験当日、開始時間は九時三十分だが早めに二時間前には家を出た。夜は緊張のせいでよく寝付けなかった。ましてや家で問題集を開いていたところで落ち着かない。車に揺られていた方が気は楽だった。
 甲州街道の上り線は、日曜のせいで車はまばらにしか走っていない。新宿方向に進み、永福のランプから中央高速に乗りそのまま首都高速を走る。高速もすいすい流れがいい。三宅坂のインターチェンジも渋滞することなく左に折れ、外回り環状線に入っていく。竹橋インターチェンジを過ぎ、江戸橋インターチェンジはいくぶん混んではいたもののほどなく通り過ぎた。
 父が冷やかしに訊いてくる。
「どうだ、気分は?」
「ああ、まあまあだよ」
 高速道路は事故以来走ったことがなかったが、高速で走っても千華がいうような不安は感じない。あらたまって出かけるといえば病院ぐらいのもので、これだけ遠出をしたのはしぶらくぶりのことだ。試験のことは忘れてしまいそうになるぐらい気分は上々だった。
 車は銀座のランプを降り、晴海通りをまっすぐ進む。試験会場になっているEビルは、晴海の国際貿易センターの手前にある。父がセンターを知っているというので全部任せていた。二つの橋を渡り、右に折れるとすぐにEビルが目に入った。結局一時間もかからずに着いた。
 父はビルの近くに車を止めた。
「このまま車の中で休んでいよう。三十分前ぐらいになったらいけばいいだろう」
 と言ってシートを倒し、足をハンドルの上に放り投げて居眠りを始めた。父の会社は一応週休二日制になってはいるものの、中間管理職の父はまず土曜日を休むことはない。昨日も赤い顔をして帰ってきたのは、十二時近くになってからだった。
 正和は一切問題集を開くつもりはなかったが、しかたなく復習を始めた。はっきり覚えているだけでも五回はやっているので、ほとんど理屈抜きで頭に入っていた。ふと前の車を見ると、ルームミラーに映った顔から三十代と思える男が、ハンドルに問題集らしきものを広げて同じように首っ引きでやっていた。
 八時半を過ぎたあたりからバスから降りてくる、それこそ老若男女がEビルの中に吸い込まれていった。時間はまだ充分あるのに不思議と焦りを覚える。父はと見ると、すっかり寝息をたてて気持ちよさそうに眠っている。しかたなく九時まで待つことにした。
 九時十分前になったとき、前の車の男が出ていくのを見るといてもたってもいられず父を起こした。
「おお、そんな時間か。じゃあいくか」
 いざ試験場に入ろうかというとき、車に乗ってからはそうでもなかった緊張感がどっと吹き出す。ふらつきぎみの歩行を、父に支えられるようにしながらEビルの中に入った。会場は三階とあるので、エレベーターを使って三階に上る。既にかなりの受験生が席を埋めており、特に指定はないようなので出入り口の後ろの席に腰を下ろそうとすると、そこの机には一つだけ受験番号が張り出されていた。それはまぎれもない正和の番号だった。受験申請書を郵送するとき、身体の調子の悪い場合には車椅子で受験するので出入り口付近に席
をとってくれるようしたためておいたのだが、そのとおりにしてくれたようだ。
「車で待ってるぞ。時間がくる少し前になったらくるからな」
 父は当たり前のことにようにそう言い残して立ち去った。ひとりになると、そこはかとなく不安が沸き上がってくる。それを父にいうわけにもいかず黙って見送った。廊下では子供たちの付き添いらしい親たちが待っているので、父もそうしてくれるものと思っていたが期待外れだった。
 教室を見渡すと、小学生らしき子供が数人混じっている。中でも、見かけたときには親の受験に子供が遊び半分に付いてきたのだろうと思っていた、どうみても幼稚園児としか思えない女の子がいる。正和は気を取り直して、みんながそうしているように問題集を開いた。
 時間がきて三人の試験官がやってきた。すぐにでも問題を見たいものを、ああだこうだと決まりきった注意事項を並べる。いらいらする気持ちを押さえながら待つと、ようやく問題用紙と解答用紙のマークシートが配られた。
「まず最初に受験番号と名前を書いてください」
 試験官がそう言うのを右から左に聞き流し、二十四の問題をひととおり眺め渡す。うんうん・・、ひとりうなづきながら、亜香里の言うことや問題集に書いてあることが正しいことを確認する。一見したところ、電波法規、無線工学の一問づつが見たことのない問題だ。その二つを除けばすべて問題集の中にあるものだった。
 一息ついて名前と受験番号を書き入れると、まずは問題の選択枝にマルをつけていく。選択枝の順序はいろいろな並べ方をしてはいるが、よく読めばすぐにわかる。なにしろ答えそのものを覚えているので、問いをいちいち読まなくてもいいぐらいだった。小学生でも合格するという意味が、実感として理解できた。
 答えをマークシートに写し終えると、飛ばした二題にかかる。法規の一題は類似問題をやった記憶があるので、頭を少しひねって答えを見出したが、無線工学の一題は何度考えてもわからなかった。結局、神様のいうとおり・・・・、で三番目のマスを黒く塗りつぶした。時計を見るとまだ二十分しか経過していない。念のため問題を最初からやり直す。一度、二度、目を皿のようにしてマークシートと見比べるがまちがいはない。
 三十分が経過すると、早い者は次々に出ていく。正和も出ようかと思うが、なにしろひとりで廊下に立っている自信がない。車にいくのも途中で萎れてしまいそうで出るに出られないのだ。問題用紙は持って出てもいいというので、心境としてはすぐにでも廊下で答え合わせをやりたいところだが、椅子に座っている方が安心なので最後までいることにした。
 試験官が、「やめ」と言うまでいたのは正和を含めて十数人だけだった。
「おい、どうだった?」
 ガラッと開いた扉から父が言うのを首でチョコンとうなづいただけで、脇目もふらず問題集の解答と正和の書いた解答とを合わせていく。二十四問中、二十三問の正解である。神様のいったものだけが誤答で、あとはすべて当たっていた。
 女子高生らしい女の子らの、やはり合格を確信したのか手を取り合って喜ぶ様。その横でしかめっ面をしたまま何度も問題集をめくっている年配の男。たかが趣味の資格とはいえ、発表前から人生の小さな波を描き出していた。
 発表まで従事者免許証の申請書を書いて待つこと約一時間、さきほどの試験官がコンピューターのプリント用紙を持って現れた。掲示番に張り出すが、高校や大学受験の発表のときのような殺気だった雰囲気はなく、みんなは思い思いに自分の番号を探している。合格していると確信してはいても、やはり気になる。正和も人垣の後ろから自分の番号を見つけ安堵した。例の幼稚園児が親と歓喜の声を張り上げている。それをネクタイを締めたサラリーマンらしい男
が苦笑いを浮かべ、横目で見ながら立ち去っていった。
 合格者の顔はどの顔にも笑みがこぼれている。和気あいあいのうちに列をつくり、申請手続きを済ませる。二、三週間で従事者免許が送られてくるという。明日からはその日を一日千秋の思いで待つことになりそうだ。

グレーの乗用車

 Eビルを出ると、今度は秋葉原に向かった。
「合格祝いに、予定してるのよりいい無線機を買うか」
 父が上機嫌で言う。
「ああ、期待してるよ」
 トランシーバー、アンテナ、出力計・・、購入する器械類はどれにするか、亜香里と相談してとうに決めていた。カタログを入手し父にも見せて、すべて諒解を得ていた。昨晩は母に用意した購入代金の現金を見せられ、少なからずプレッシャーがかかったが、受かってみれば取り越し苦労といえた。
 父はカーステレオの演歌に合わせ、歌を口ずさんでいる。まるで自分が免許を取得したかのようだ。父のはしゃぐ姿はしばらくぶりに見る。
「これなら父さんでも充分合格しそうだな。父さんと同じような年代の人がけっこういたものな。仕事が一段落ついたら受けてみるか・・・・」
 好きにしろ、と胸の内でつぶやく。
「昨日の夜、母さんともちょっと話したんだがな。母さんもやってみようかなんて言ってたぞ」
「へえ・・・・」
 つい小馬鹿にした調子で言う。
「迷惑そうな口ぶりだな?」
「いや、そんなことはないよ」
「隣りの彼女とのことを、じゃまされたくないか?」
「亜香里とはそんな付き合いじゃないさ。それより最近、あまりケンカをしなくなったな・・・・!?」
「ばかやろ。親をからかうもんじゃないよ」
 父は左手で正和の頭をゴツンとやりながら明るく言った。
 一般道路を揺られること数十分、車は秋葉原の一画に着いた。なるべく予定している店の近くに止めようとするが車が混雑し、また歩行者天国をやっているせいもあって近くまではいけない。離れた場所まで人混みの中を歩いていくのはつらい。やむなく正和は、駐車禁止の摘発を逃れるためにも車で待っていることになった。
 父はそれから三十分ほどでもどってきた。両手には持てないほどの段ボール箱を下げてくるはずなのが、書類を入れた封筒だけでほかには手ぶらだった。
 座る間もなく、父は封筒から一枚のカタログを取り出す。144MHzと430MHzが一台にセットされた、K社のV・UHF用カートランシーバーのものだ。
「それも買ったからな。それと430メガのアンテナはスタックアンテナとかいってな。八木アンテナを横に二列に並べるものにしたよ。指向性を持たせた方が電波の飛びがぐっとよくなるらしいんだな。そのアンテナもローテーターとかいうのでグルグル回せるものにしたよ。ほら、川村さんのとこにもあるやつさ。車相手に交信するのはそれぐらいの設備が必要なんだそうだ」
 正和が口をあんぐり開けていると、さらにベテランハムのようなことを言ってくる。
「二メーターはチャンネルが少なくて出る人も多いので、なかなかチャンネルが空かないんだそうだ。だから二メーターのアンテナはようすを見て、必要になったら買うようにしよう。明日アンテナを取り付けにきてくれるそうだから、製品もそのときに持ってくるはずだよ。それに局免許の書き方も教えてくれるそうだから、そのときに書いてしまうといいさ。申請用紙も買ってきたんだ」
 従事者免許がこないことには局免許の申請はしようがないが、用意しておくにこしたことはない。店員にのせられている節がないでもないが、手際のよさにはただ感心させられるばかりだった。
「144メガのことを二メーターともいうんだそうだ。なぜそういうか知ってるか?」
 ばかばかしくて相手にしないでいると、「ちぇっ」と舌打ちしながら言う。
「波長だよ。144メガヘルツの波長は二メートルなんだよ。よくそれで試験が受かったもんだなあ・・・・」
 父は満足そうな顔でタバコに火をつけた。
 トランシーバーはすぐにでも手にとって見たかったが、ここは父に任せて静観していた方がよさそうだ。
「父さんが合格したら、もう一台車に積むのを買わないとな。費用はかかるけど飲み代に比べたら安いもんさ。それに頭の体操にもなるし健康的だしな」
 父は自分に言い聞かせるように言うのだった。