2 胸騒ぎ     その二

「実は昨日の夕方、交通事故に遇われまして、私どもの病院に収容されているんです」
「え、交通事故!?」
 一瞬その内容に安心し、すぐ我にかえって訊き返す。「それで怪我の程度はどんな感じですか」
「それが重症なんです」
「えっ!」
 唾をゴクンと飲みこんでから、おそるおそる訊いた。「命が危ないということですか?」
「いえ、それは私ではわかりません。とにかくできるだけ急いでこちらにきてもらいたいんですが」
「わかりました。それにしてもどうしてもっと早く連絡いただけなかったんでしょうか?」
 昨日の夕方といえば、まる一日以上過ぎている。昨日の夜は一杯引っ掛けて帰ったものの零時ごろには家に帰った。女房からはなにも聞いていないし、義姉からも連絡はなかった。
「詳しい経過はよくわかりませんが、警察も病院の当直担当の者も奥さんのほうから連絡がいったものと思っていたらしいです」
 それならば合点がいく。気分がすぐれないときは電気料金の集金人にさえも脅えてしまうようなところがあると、兄から聞いたことがある。そんな義姉が病院のベッドによこたわる兄を前に頭が混乱の極みにあるとしてもおかしくはない。
 良次は会社の戸締まりもそこそこに車に飛び乗った。
 病院のすぐ前の交差点まできたとき、信号が赤になり横断歩道の前で止まった。入院中の患者が向い側の店に買い物にでもいくのだろうか、パジャマ姿の男が松葉杖をついて車の前を横切っていった。
「いっそのこと・・・」
 これから待ち受けているめんどうなことを思うと、いけない考えが脳裏をかすめていった。
 病院の敷地の中に乗り入れると、すぐに夜間受付と書かれた誘導用の案内板が目に入った。その矢印どおりに車を滑らせ、小さな赤ランプが灯った入口の近くに車を止めた。
「あの、昨日交通事故で運ばれてきた菊池秀一の身内のものなんですが」
「そちらの階段を昇って、二階のICUになります」
 二階のフロアーに着き廊下を眺め渡すと大学の附属病院だけあって、ICUと書かれた部屋が三つあった。
 無意識のうちに足音を忍ばせ首だけ突っこむようにして最初のICU室を覗く。扉が開け放された部屋の中には、ベッドとややこしい器械が寒々と置いてあるだけで誰もいない。その前を素通りし、さらに緊張して爪先立ちになって歩き二つ目のICU室にさしかかった。今度は扉は開いているもののカーテンが閉まっている。明らかに人の気配がする。ICUとなれば、兄の症状はだいたい検討が
つく。良次は深呼吸をして覚悟を決めると足を一歩前に出した。
「奥さん、わかってくれませんか」
 突如、バスのきいた重苦しい声がカーテン越しに響いてきた。思わず良次の足が止まる。
「だって、まだ死んでないもん」
 義姉の声だ。
「ですからそれは人工呼吸器で肉体が機械的に動いているに過ぎないんですよ。機械のスイッチを切ってしまえば、心臓もすぐに止まってしまうんです」
「こんなにあったかいもん」
 義姉の話し方がどこかおかしい。良次はハッとしてカーテンをめくった。
「失礼します」
 そこには良次が想像した以上の光景が展開していた。
 ベッドによこたわった兄は、頭の髪をつんつるてんに剃り上げられ、上半分は包帯でぐるぐる巻きにされた痛々しい姿をさらしていたのだ。さらには脇に置かれた器械からは幾本ものリード線とパイプが、まるでサイボーグを操作するためのリモコンのようにつながれていた。その機械のうちの一台は、プシュー、プシューと耳障りな音をたて、その横のブラウン管は複雑な波形を描き出していた。

ストレッチャーの患者

 義姉は兄にすがりつくように伏せっている。それを取り囲むようにして白髪の初老の医師と若い医師、それに看護婦が立っていた。
「被害者の弟です」
 良次が入っていくと、苦がりきった表情をしていた初老の医師が組んでいた腕をほどき足を揃えて言う。
「この度はどうも。私担当しています、江畑と申します」
 胸の名札の肩書きは“教授”となっている。義姉は伏したまま顔を上げようともしない。
「先生、すみませんがちょっとこちらに」
 廊下に導き出してから、教授の耳元にささやくように言う。「姉は精神障害をわずらっていまして、こんな状況に耐えられるような精神力はありませんのであまり刺激しないでほしいんです」
「あ、どうりで。それはどうも失礼しました」
 教授は恐縮しきった顔で非を詫びた。「それじゃ、こんなところでもなんですから私の部屋まできてください」
 教授に促されるままにあとについて歩き始めるが、すぐにも兄の容体が知りたくて尋ねた。
「どうなんでしょうか、兄の容体は?」
「ええ、慌てることはありませんよ。部屋のほうで詳しいことをお話ししますから」
 いい意味にとったらいいのかまったく逆の意味なのか、言葉を続けて出そうとするが喉元で引っ掛かってしまった。
 階段を上がりかけて、教授が急に立ち止まって言う。
「すみませんが、ちょっと待っててください」
 ICU室にいき、若い医師と看護婦を廊下に引っ張り出してなにやらぼそぼそやっている。が、すぐに小走りで戻ってきた。
「二人にはよく言っておきました。奥の個室が空いてますので、なにかあったらそちらで休んでもらうようにしますから。看護婦の話しでは、昨日から満足に寝てなくて食事もろくに取ってないそうです。気持ちはわかるんですが、奥さんまで倒れたんでは大変ですからねえ」
「よけいなお気遣いをいただきまして」
「いいえ、病院としてできることはそれぐらいしかないですから」
 休憩室まで用意してくれるとはずいぶん親切な病院だなあと、若干薄気味悪さを感じはしたがありがたいことには違いなく、それだけによけいに訊きづらくなり教授のあとを黙々とついていった。
 三階フロアーのいちばん奥が教授の部屋だった。
「どうぞ、おすわりください。コーヒーでよろしいですか?」
「はい・・」
「ああ、私だ。コーヒーを二つ頼む」
 インターホーンに向かってそう告げると、教授もソファに腰を下ろした。
「それでお兄さんの容体なんですが」
 教授はいったん息を整え、良次の目を正面に見据えた。「脳死なんです。ご存じかもしれませんが脳の大部分は死んで首から下が人工呼吸器で生きているという状態です」
「要するに結果的として、死体になっているようなものだということですね」
 自分でも意外なほど冷静に問い返した。
「そうです。いうなれば生きた死人がベッドによこたわっているということになります。脳外科の医師によりますと、運ばれてきたときには既に心臓が停止していてマッサージや電気ショックでどうにか鼓動を始めたとのことです。それでどうにか手術を試みたんですが、頭蓋骨を開いたとたん脳みその一部が吹き出してきて、ほとんど手がつけられなかったそうです。車に跳ねられて歩道の縁石にもろに頭をぶつけたらしいですね」
「そうでしたか」
 さっきの教授の会話から、ひょっとしたらという気はしていたが不幸にも予感は的中してしまった。