3 覗く牙     その一

 奇妙にもがっくりきたというよりは、長年胸のどこかに引っかかっていた重しがとれたのだった。良次が高校生のころから引っかきまわされたことのあれこれが、ビデオを超スピードで回したかのように脳裏を駆けめぐる。
 だが結婚して落ち着いてからは、ほとんど手間のかかることはなくなった。それがこのざまとは、神様はなんといたずら好きなことか。二人が結婚するとき、誰もが心配していたことが現実のものとなりそうだった。義理の仲とはいえ姉と弟の関係となれば身寄りのいない義姉に対し、あとあと知らんふりをきめこむわけにはいかない。会社のことも考え合わせると、良次もなれるものだったら精神病にでもなんにでもなりたい心境だった。
 軽い目舞いが襲う。
「大丈夫ですか?」
 ドアがコンコンと鳴る。
「失礼します」
 女医の卵と思える白衣姿の若い女が、コーヒーを持って入ってきた。
「そこに置いて。まあ、コーヒーでも飲んで気を取り直してください」
 教授も言葉もうつろに聞こえる。これからなにをどう手をつけていけばいいのか、検討もつかなかった。
「それで兄はあのまま植物状態で、ベッドの上で生きていくことになるんですか?」
「いえ、脳死と植物人間とはまったく意味が違うんです。植物人間の場合は栄養補給を続けさえすれば、普通の人間と同じように生きていくことができるんですが、脳死の場合は栄養補給をして人工呼吸器で呼吸を続けても、いずれ心臓が停止するのは時間の問題なんです」
 それならあんな廻りくどいことなど、してくれなければと思う。
「兄の場合はあとどれぐらい生きていることになるんですか」
「全力を尽くしてやってますので、二、三週間はもつものと思います」
 そんなことをしたところでなんになるのかと思うが、義姉にとってはある程度お別れの時間があったほうがいいのかもしれない。
 教授はタバコを手にとり火をつけると、ふっーと大きく煙を吐き出した。
「それでお姉さんにはお話ししたんですが、菊池さんにもぜひとも聞いていただきたいことがあるんです」
 あらたまったようすに、つい身を引いて答える。
「なんでしょうか?」
「実はお兄さんの所持品の中から、心臓のドナーカードが発見されましてね。要するに死んだときには心臓を必要している方に提供するというものです」
「ええ」
「こちらで臓器移植センターのほうに照会してみましたら、三日前に登録なさってるんですね。ご存じでしたか?」
「しようと思ってるという話しを聞いたことはあります」
「それでしたら話しやすいのですが、私どもとしましてはせっかくのお兄さんのご意志なわけですから、さっそくその方向で準備を始めました。移植に先だって、臓器摘出法で定める検査基準をクリアーしなければならないのでそれもすべてやりました。これを見てください」
 教授は机の上から一枚の検査表を取り出した。そこには数字の羅列とプラス・マイマスの記号が並んでおり、良次にはなんのことかさっぱりわからない。「ここに脳血流検査と聴性脳幹反応検査がありますね。これは法律ではやる必要はないことになってるんですが、我が大学ではより慎重を期すということでこのとおりやっているんですよ」
 教授は誇らしげにそう言った。
「要するに、まちがっても生き返ることはないという意味ですね?」
「そういうことになります。それで最後に必要なのはご遺族の方の承諾なんです。奥さんにはお話ししたんですが、脳死自体をわかっていただけないようでしてね。できれば菊池さんからご承諾の判をいただけないでしょうか?」
「義姉のはなくて僕のがあればいいんですか?」
「ええ、配偶者の方の判があればいちばんいいのですが、臓器提供者保護法では配偶者の方からとれない場合は直系家族かご兄弟のうちの、どなたかの承諾があればいいことになっています」
 教授はさらにもう一枚の用紙を良次の前に差し出した。承諾書だった。
「待ってください。いくら法律でいいとはいっても、僕が勝手に判を押すわけにはいきません。それでなくても気持ちの整理がついてないんですから」
「ごもっともです。それじゃ、菊池さんからぜひお姉さんを説得していただけないでしょうか?」
「はあ」
 もう既に、良次は諒解したものと決めつけているようだ。
「ところでお姉さんの病名はなんですか。もし必要とあれば、ここにも精神科がありますので誰かこさせますよ」
「以前、ここの精神病棟に入院していたんですよ、義姉も兄も。そもそもの馴れ初めがここの病棟でのことですから」
 教授は驚きを隠さずに言う。
「お兄さんは無職ということでしたが、そういうことでしたか。すると主治医は細野教授ですか?」
「そうです。さっきも普通ではありませんでしたね。あれ以上ひどくなるようなことがあれば、細野先生にきてもらえるようにしていただけないでしょうか」
「わかりました。細野君とは学生のときから、ボート部時代からの先輩後輩の仲ですからね。どうにでもなります」
「おそれいります」
 教授はコーヒーを啜り、それまでは乗り出すようにしていた身をソファに預けるような体勢に変えた。そして独り言をつぶやくように言った。