その2

 あと一ヵ月で小学校へ入学となった時期、僕は母方の祖母から買ってもらったランドセルを毎日のように豚肉の脂身をボロ布に塗りたくって磨いていた。次兄が近所の人からもらった野球のグローブを、よくそうやって磨いていたのを見て真似をしてのことだった。
「真新しいんだがら、そんなに磨っごどはねんだど」
 と、お袋が笑いながら言っても、僕には聞く耳がなかった。
 そんなある日の兄たちは学校へいっているときの昼下がり、お袋との昼飯をすましてひと息ついているところに親父が帰ってきた。
 親父は総合病院のコックをしているので勤務時間は泊まりや早番遅番と、まったく不規則な生活を送っていた。だから昼間ひょっこり顔を見せようと別段おかしなことではなかった。
「いづも散らがしっ放しだな。ほんどにおめえは、かだづけるごどのでぎねえ女だなや」
 親父が家に入ってくるとき、二回のうち一回はこれと似たようなセリフを吐く。息子が三人というせいもあるのだろうが、我が家はきれいに整理整頓されていることは、まずほとんどないといってよかった。新聞紙やらゴミが畳に散らかっているのはもちろん、テーブルの上に食いっ放しの食器とか、食器がかたづけてあっても食べかすや醤油で汚れたままになっているとかが普段からの横瀬家の姿だった。
 親父は目についたものをてきぱきかたずけると、玄関から顔を出して言う。
「おおい、いいど。入れや」
 お袋よりひと回り若いぐらいの厚化粧で顔を整えた着物姿のおばさんが、僕にニッコリ笑みを投げかけながら入ってきた。
「失礼します。あら、小ざっぱりしていいとこじゃないの」
 それはいくら社交辞令にしても、長屋の小さな台所が付いているだけの八畳一間に向かって言う言葉ではなかった。
 さすがの親父も照れ笑いを浮かべ、ごまかすように言う。
「おい、お茶っこでも出せや」
 おばさんに気をとられていたが、お袋はと見るとお玉を手に持ってブルブルいわせ、引き攣った顔で仁王立ちになって親父を睨みつけていた。
「なにやってんだ。お客さんがきでんだがら、お茶っこのひどづでも出してあだりまえだべや」
 親父がいきり立ってそう言うのを、おばさんは親父の古ぼけた背広の袖口を引っ張った。
「あんた、そんなことはいいから」
 そして今度は、背を向けたお袋に向かって言う。「奥さん、すみませんねえ。すぐに失礼しますのでお気遣いはけっこうですから」
 お袋がお玉を流しに投げつけたと同時に、茶碗が壊れる鈍い音がした。
「お客さんの前でなんだ、その態度は!」
 親父の怒鳴る声が耳に入らぬかのように、お袋は無言のままヤカンを石油コンロにかけ火をつけた。
「康平くんていうんだってね。まんじゅうは好きかしら? よかったらあったかいうちにどうぞ」
 僕は硬いながらも愛想笑いを浮かべて手を出そうとした。
「これ、ありがどは」
 親父が横から言った。
「どうも、ありが・・」
 そう言おうとして手を伸ばすと、流しの洗い物をしていたお袋がこちらを振り向きざまに甲高い声を張り上げる。
「そんなのもらうんでねえ!」
 鬼のような形相のお袋に、僕は身をすくめて手を引っこめた。
「なに言っでんだ、お客さんに対して失礼だべ。康平、遠慮しなぐでいいがら食べでいいど」
 おそるおそるお袋の顔を覗きこむようにしながら、再度手を伸ばしかけると、また僕を睨んで言う。
「毒でも入っでだらどうすんだ。やめろ!」
「てめえ、いい加減にしどげよ。なんで毒が入ってねげねんだ」
 親父はそう言って立ち上がると、お袋に殴りかかろうとする。それをおばさんが立ち上がって腕をとった。
「あんた、わたしの前でやめてよ。もう、とにかく帰るから。さ、早く・・」
 おばさんはそのまま親父の腕をとって玄関先に立ち、下駄を履いた。「奥さん、どうもお騒がせしましたね。もうちょっとだけ旦那さんをお借りしますよ」
 ニヤッと皮肉な笑いを浮かべ、親父と連れ立って外に出ていった。

パンジー

 それからのお袋がまた大変だった。まんじゅうを包みごとゴミ箱に放りこみ、柄杓の柄の先で、ゴミ箱まで壊れてしまうのではと思うほどになんべんも突つくのだった。僕はそれを横目でチラチラ、いくらか恨めしげに見ながらひたすらランドセルを磨いた。それから十分ほどしてやっと気がすんだのか、お袋は額にかいた汗を拭いながらゴミ箱を手にすると、裏のゴミ捨場に持っていった。
 一時間ほどして親父がもどってきた。親父は周りをきょろきょろ見渡すと、満足そうな顔をして言う。
「まんじゅう、食べだんだな?」
 お袋が背を向けているのを確かめてから、声には出さずに首をこくっとだけうなづいたがなんの意味もなさなかった。お袋が包丁を手にして、くるっと身をひるがえしてきたのだ。
「あんなもの裏に捨でできだ。ナルコの女どは手を切っだっで言っだでねえが。それをなんだこのやろ、家まで連れでくっどは。おれをバガにすんのもたいげいにしろよ」
 ナルコの女、しばらくぶりに聞く言葉だった。おぼろげな記憶ながら、夫婦喧嘩のおり何度か耳にしていたのだ。
「うるせえ、おめえにいぢいぢ断る筋合いのもんでねえ。俺の勝手だべ」
「なんて言いぐさだべ。それが女房に言うごどが!」
 お袋は腕全体をぶるぶるいわせながら、いまにも飛びかからんばかりの様相だ。僕はちょうど二人のあいだにいたので、ランドセルを抱えて転がるようにしながら部屋の隅に移った。
「ただいま」
 開いた引き戸には長兄が立っていた。「やめろ、バガたれが。表まで聞ごえでるでねえが」
 その兄の一喝で、二人は勢いを弱めた。
 高校生になっていた兄は、腕力的には親父と互角に渡りあえる体格になっていたし、お袋にしても一目おく存在になっていた。
「ナルコの女を連れてきたんだど。こんなヤヅ、死なねげわがんねんだ」
「おめえみでいな掃除もろぐにでぎねえような女になにがわがる。女つうのはな。男にやさしぐつぐしで家の中のごどもきぢんとやっておぐもんだ」
「そだら偉そうなごどを言えだ立場が!」
 お袋は包丁を構え、いまにも切りかかりそうなようすだ。それを兄が割って入り包丁を取り上げた。血をみるようなことはそれでどうにか回避できたが、兄をあいだに挾んだままの二人の罵り合いはしばらく収まることはなかった。