その3

 些細な揉め事はそれからも日常茶飯事的に、あたかも二人の趣味でもあるかのように続いていったが、僕が小学校四年のとき決定的な“事件”が起きた。
 あと二週間で夏休みに入るという、梅雨がひと休みしての晴れわたった日の月曜日、校庭で行われた朝礼が終わってスピーカーから流れる行進曲に合わせ、それぞれのクラスごとに校舎にもどっていくときだった。校門に寄り添うようにしながらタバコを吸っている親父を見つけた。
 昨夜は八時ごろ家に帰ってきて、お袋が早くまともな生活費を入れるよう若干の文句を並べ立てたぐらいで喧嘩までにはならず、朝もいっしょに御飯を食べたが学校へくるようなことは言ってなかった。もとより先生から親を呼び出されるような悪いことをした覚えもない。不吉な予感だけが脳裏をかすめる。
 みんなが教室に入り先生が、
「さあ、静かにしてください。一時限目の授業をはじめますよ」
 と言ったところに親父がきて、前の入口から先生を呼び止めた。
「ちょっどすんません」
「はい・・!?」
 先生は突然の来訪者に戸惑ったようすだった。
「横瀬康平の父親なんだげんども、いづも世話かげでます」
 と言うのを聞いて先生は、ああ、という顔で僕の方に視線を投げかけ、親父と話しをはじめた。みんながまだざわついている中でのことだったので、僕は周囲の連中には気づかれないよう可能な限り全神経を集中した。
「二ヵ月分溜めでる給食費と学級費のごどなんだげどっしゃ。悪いんだげども夏休み明げまでまっでもらえねすべか」
「はあ? 今月分はまだですけど、先月分までならきちんといただいてますよ」
「ええ、ほんどすかや?」
 親父は怪訝な顔をして、先生に問い返した。
「まちがいありません。今月のはじめごろに横瀬君がまとめて二ヵ月分をもってきてくれましたよ」
「ああ、そうだったのすかや。いや、そんならいいんだげどっしゃ」
 今度は硬直した照れ笑いの表情に変わった。
 二人のやりとりは僕の心配をよそに、周囲の雑音などものともせずに鮮明に飛びこんできた。だが途中からは軽いめまいを覚えて頭が真っ白になり、なにも聞こえなくなってしまった。
「おめえのとうちゃんでねえが。おめえ、なにがやっだんだべ?」
 と後ろから、近所に住む悠太が頭を小突きながら言ってきても黙ってうつむいていた。
 親父が帰ったあと、先生は僕をちらっと見ただけで、なにも言ってくることはなかった。
 給食費と学級費は毎月月末までに収めることになっているが、我が家の家計は一度足りともそれを守ったためしがない。代金はそれぞれ専用の茶封筒に入れて、毎朝学級担任が集めることになっている。よって月が替わると先生が毎日のように催促してくるのだ。
「横瀬君、給食費と学校費はもってきましたか?」
 すると僕はきまって、
「あ、いげね。忘れました」
 と頭をかきかき、言い訳するのが日課になっていた。だから月はじめの一週間か十日の朝の学級活動の時間は、僕にとって針のムシロ以外のなにものでもなかった。それが先々月と先月分は、今月になるまで払えないでいたのだ。
 僕なりにお袋の懐の具合いは察しがついていたから・・・。それが大部分親父が満足に生活費を入れないせいだということを知っていたから、お袋には出してもらえるまでこちらからどうこう言うことは普段なら一切しなかった。だが、さすがに二ヵ月分も溜まるとそのあいだ、毎朝先生から催促されてまさに地獄にいる心地だった。そこでお袋に、
「みっどもなぐていらんねんだ。なんとがしでけねが」
 と懇願するに相成った。お袋もいたたまれなくなったのか、とっておきのヘソクリを出してきて、
「いいが、ハゲには絶対黙ってろよ。そうでねえと、ますます金を入れなぐなっがらな」
 と言って渡してくれたものだった。
 ちなみに“ハゲ”とは親父のことで、頭の真上に火傷でできた直径五センチほどのハゲがあった。
 そのあとの一時限目の算数の時間、僕は黒板に出題された掛け算の問題を前に出てやらされたのだが、まるでとんちんかんの答えを書いて先生にお小言をちょうだいしてしまった。そして三時限目の理科の実験ではビーカーを床に落としてしまい、さらには給食のときにはついぼんやりしてて、ミルクを入れた食器を肘で引っ掛け、床一面をミルクだらけにしてしまった。

白い粒の花

 六時限目の音楽の時間、先生がオルガンをひくのに合わせてみんなで合唱しているとき、前の席のすわっていた茶目っ気を発揮するのではクラスで僕も含めて三本指に入る悪ガキが、隣りの女子生徒にちょっかいを出してごそごそやっていた。
 それに気がついた先生が、突然鍵盤の全部を叩き血相を変えて立ち上がった。
「横瀬、なにをやってるの。廊下に立ってなさい」
「・・・・!?」
 きょとんとしている僕に向かって、先生は再度きんきら声を張り上げる。
「みんなが迷惑するんだから早くいきなさい」
 指先はさっと後ろの出口を差した。
 釈明の言葉が喉元まで出かかったが、声までにはならなかった。黙って廊下に出ていき、数分のあいだはおとなしく立っていたが、それも億劫になって誰も見ていないことをいいことに学校を出てしまった。
 お袋は好都合なことに、電機工場にパートの仕事に出ていて夕方までは不在にしていた。一時間もゴロリ横になっていると、悠太が僕のランドセルを持って息をぜいぜい切らしながら現れた。
「おめえ、どしたのや。先生、カンカンに怒っでだど。なにがあったんだったら、タバコ屋の公衆電話から電話よごせって言われでんだげど、どうすっぺ。電話してくっが?」
「いいがら。立ってんのがめんどくさぐなっだがら帰ってきだだけだ。そんなごどより、このこどどが、とうちゃんが朝方学校にきだごどは誰にも黙ってろよ。いいな」
「ああ、やっぱしそのごどが関係あんのが。おめえ、朝がらおがしがっだものなあ」
 悠太はなにか訊きたそうにしながらも、それ以上はなにも言わなかった。
 その夜、親父は僕が寝付く前に一杯引っかけて帰ってきた。
「このババア、とんでもねえ恥をかがせやがって。亭主をなんだと思っでやがんだ」
「うるせえ。おめえが金をもっでこねぐで康平が泣きそうな面でなんとがしでくれっつうがら、中山さんどっがら金借りで渡しでやっだんでねえが。来月中には返す約束になっでんだがら早く金もっでこいよ」
 中山さんとはお袋のいとこで、小さいときから姉妹のようにして育ってきたという人である。
「そんな金あるわげねえ。俺の稼ぎをどう遣おうが俺の勝手だ。でいていにしておめえら誰のおかげでメシを食っでられると思っでんだ。俺がこつこつ働いでっがらでねえが」
「亭主なら給料をもっできであだりまえだべ。おめえはまどもに給料もってきだごどなんがねんでねえが。言われで悔しいんだっだら、一度でいいがら給料袋の封を切んねでもっできでみろ!」
「生意気なごど言うな。亭主にさんざん赤っ恥かがせやがって。このヤロウ!」
 親父は膝をついたままいきなりお袋に擦り寄ったかと思うと、右手でお袋の頭ごとひっぱたいた。お袋は瞬間的に手で頬を覆ったが、親父の勢いの方が勝って、お袋は横倒しに吹き飛んだ。
「なにすんだ、バガ!」
 今度は長兄が親父の右頬にアッパーカットぎみにパンチをくり出した。親父はのけ反って倒れ、唇からは一筋の血を流した。
「もういい、おめえらバガどもどには付き合いきれねえ。こんな家は出てぐ。おめえとは別れっがらな。あどで離婚届げをもっでくっがら、ちゃんと判子押せよ」
 その捨てゼリフを残すと、親父は唇の血をちり紙で拭いながら身一つで出ていった。
「フン、そんなごどできっこねんだ」
 お袋は口許を曲げて吐き捨てるように言ったが、横で二人の兄は心なしかほっとした表情を見せた。