その4

 親父はその日から二日、三日とたっても家には帰ってこなかった。一週間が経過しても姿を見せず、さらに二週間が過ぎて給料日がきてもなんの音沙汰もないときては、さすがにお袋も焦りの色を隠さなかった。
 この二ヵ月満足な生活費は入れてもらえずにいたので、僕の給食費や学級費だけでなく家賃や米代の支払いも滞ったままになっていた。お袋のパートのほかに兄二人も新聞配達をして家計の足しにはしていたが、そこまで賄いきれるものではなかった。
 お袋と長兄が、どうしようかとやきもきしていたその矢先、親父の兄、つまり叔父がひょっこり現れた。お茶を飲み、タバコを吹かしながらしばらく僕や次兄に近況などを聞いて時間を費やしていたが、三十分ほどして一枚の書類を出していかにも話しにくそうに切り出した。
「実は地太郎がら、これを預がっできだのっしゃ」
 お袋はその書類を見ると渋面をつくり、書類を睨みつけたままピクリとも動かなくなった。「いや、あいづの勝手な言い分だがらっしゃね。アキさんの気持ぢもあるんだべがら、すぐにつうわげにはいがないというごどは、あいづにも話しであんのっしゃ」
「気持ぢもなにも、金もなにも満足にもってこねえでこんなものに判つけっだっでね」
「ああ、そらそうだっちゃ。んだがら、いざ別れるとなれば慰謝料とが息子が成人するまでの養育費とがは、まちがいなくあいづに払わせっがら。それでなぐども賭事とが女に入れ揚げて給料はろぐに入れでねんだすぺ?」
「んだっちゃ。あっぢこっぢに支払いが溜まって困っでんのしゃ」
 叔父が、うんうんとうなづいて次のタバコに火をつけているあいだに、お袋はいったん席を立って便所にいった。
「あんちゃん、これを俺が帰ったあどでかあちゃんに渡しでやっどいでくれっが」
 叔父はそう言って厚めの白い封筒を無理矢理二つ折りにして、長兄のズボンのポケットに押しこんだ。
「えっ!? んだっで、これは・・」
「いいがらとっでおげ。地太郎がら預がっだものでねえがら。俺の気持ぢだがらや。しばらぐはこれでなんどが食いつなぐように、あどがら言っどいでくれや。いいが、俺がいなぐなってがら言うんだど」
 叔父は煙をうまそうに吐き出し、「バガな弟をもっだ兄貴は苦労すんだなやあ。あんだらも、あんちゃんによげいな面倒かげんでねえど」
 と、僕と次兄に笑いながら言った。
 お袋がもどってきて、さらに気の重たそうな顔になって再度叔父の前にすわった。
「すぐに結論出るわげでもねえど思うんだけど、とにがぐ考えでおいでくれねべが。俺もあいづにはほどほど愛想をつかしでんだ。金の面さえきぢんとすれば生活はやっていげるわげだし、この際別れでやり直した方がいいど思うんだけどなやあ」
「はあ。さんざんおれに苦労かげでおいで、今度は三行半とはなやあ。おれと別れでナルコの女どでもいっしょになるつもりなのがやあ」
「いや、あれどはとっぐに別れだらしいど」
 叔父は僕の方を気にしながら言った。僕は聞こえないふりをして算数の宿題をやっていた。
「とにがぐ夫婦には他人にはわがらないごどがいっぱいあっから、そう簡単に整理がつくもんでもねえわなあ。じっくり考えで、いやだっだらいやでいいんだがら、とりあえず考えでみでけさい」
 叔父はお茶をぐいっと飲み干すと腰を上げた。「んだら、そのうぢまだきでみっから」
 書類は飯台の上においたままで帰っていった。

薄紺色の花

 さっそく長兄が封筒をお袋に渡すとお袋はそれまでの強ばらせた表情をいっぺんに笑顔に変え、取り出した一万円札を丁寧に一枚一枚数えていくのだった。
「なあ、かあちゃん。さっきの話しだげどな。清太郎おんつぁんの言うとおりでねえが。いづまでもあんなのどいっしょになっでだっで、しょうがねえべや。もらうものもらってさっぱりした方がよっぽどいいんでねえが」
 長兄がそう言ったのが耳に入らぬかのようにお袋は札を封筒にもどすと、やにわに飯台の書類を手にとり、細かく破いてゴミ箱に捨てた。
 そして一ヵ月後、また叔父がやってきた。この前と同じようにとりとめもない世間話しに興じたあと、おもむろにお袋に話しをはじめた。
「どうだすぺ。考えはまどまっだすか?」
 お袋はうつむいたまま首を横に振った。
「はあ、そうだすぺねえ。二十年近くも夫婦をやっできで突然別れでくれっで言っだっでなやあ。地太郎が身勝手だっつうのはわがりきっでんのっしゃ。そんで今月分の給料はもっできだのすか?」
 お袋はまた首を横に振り、ぽつり言うのだった。
「あの書類は、あの日のうぢに捨てだがらっしゃね。かんべんしてけさい」
「ああ、そうすか」
 それだけ聞くと叔父は、さも鉄の体でも持ち上げるかのように立ち上がった。「んだら、そういう風に地太郎に伝えでおぐがら。ああ、それがらこれ少しなんだげど」
 そう言って、やはり白い封筒をお袋に手渡そうとした。
「いいがら、清太郎さんに迷惑はかげらんねえがら」
 お袋は苦笑しながら受け取ろうとせず、押し返した。
「いいがらいいがら。兄貴である以上俺にも少しは責任あんだがら。それにほら、俺はいまは気楽な独り者だがら多少の融通はきぐすからや」
 叔父は数年前奥さんを癌でなくしており、子供もいなかった。
「そうすか。んだら、借りとぐっでごどにしどいでけさい。金が入ったら必ず返すがらね」
「そだら気遣わなぐだっでいいっつうの」
 叔父は心もち淋しげな笑顔を残して帰っていった。