その5

 見慣れぬところからお袋宛に一通の封書が舞いこんだ。家庭裁判所からのもので、親父がお袋に対し離婚を前提とした調停の請求を起こしたのを受けて、それの調停日を通知する呼出状だった。
 当初それを見たお袋はいくぶん緊張したようすだったが、気分が落ち着いてくると親父をあざ笑うかのように言った。
「こんなごど無駄にきまっでぺや。おれは浮気もなにもしだ覚えはねんだがら、おれがうんと言わねげ裁判所が離婚を認めるわげねんだ」
 封書が届いた日から三週間後の調停の日、お袋は勇んで家裁へ出頭していった。とりあえずは調停委員とかを交えて話し合いを行なったようで、家に帰ってきてからのお袋は親父の悪口のオンパレードだった。僕も二人の兄も、お袋の愚痴をまともに聞いていると頭が痛くなってくるのでラジオに耳を傾けていたり、教科書を開き頭に入るはずもない勉強をしているふりをして過ごした。
 その夜、僕が床に入ってまだよく寝付けなくてうつらうつらしているときのことだ。それには気付かないお袋と長兄がひそひそ話しをやっていた。
「ハゲのやづ、離婚すっどきに康平をよごせって言っできやがっでなあ」
「なにぃ! とんでもねえやづだな。康平はやんだって言うのにきまっでぺや」
 全身に鳥肌が立った。それを振り払いたくて、僕は寝惚けたふりをして布団に顔を埋めたまま右に左に寝返りを打った。
「ああ、わがっでる。絶対やらねえ。離婚だっでしてやるもんでねえわさ」
「慰謝料はなんぼよごすっで言っできでんだ?」
 お袋はその質問には答えることなく、二人の会話はそれを最後に途切れた。
 それからはしばらく、僕は落ち着かない日々を過ごすことになったが、二回、三回と話し合いがもたれた後、一応の調停が成立した。
 お袋と長兄の話しを総合すると、結局離婚はお袋が応じないので成立せず、いまのままの別居ということになって親父は月になにがしかの生活費を出すことになったという。要するにいままでと変わらない生活を送っていけることになったわけで、僕はひとり胸を撫で下ろした。
 だが、ほっとしたのも束の間、大役を命じられることになった。
「給料日の次の日に、ハゲの病院までいっで金をもっできでくれねが」
 と、お袋が言ってきたのだ。
 長男にはいちばん上の者としての弟に対する責任とか義務がかかってきて、それなりに大変だろうが、末っ子にはまた別の苦労がある。なにかにつけての小間使いがそれだ。朝の豆腐、油揚げとかのおかずの買い出し、米屋への米の注文、近くの駄菓子屋への買い物、とにかく小学生でやれるようなことなら、すべてが僕に回ってくるのだった。
 親父が勤める病院は仙台の北の端にあり、こちらの住まいは南の端にあったので市電で街中を横断していく形になるが、二度ほど遊びに連れられて帰りは一人で帰ってきたので小学四年といえどさほど問題はなかった。しかしながら、翌月からの二十六日は僕にとって月のうちで最高に憂鬱な日となった。
 だが悪いことばかりではない。親父が家にいるときよりは、金を入れるのが比較的きちんとやるようになった。だから、月末までには給食費も学級費も収められることになって、先生に白々しい言い訳をすることがめっきり少なくなったのだ。
 小学校を卒業と同時に、その小児性胃潰瘍を起こしてしまいそうな役回りも卒業となった。というのは、その年の三月に次兄も工業高校を卒業して、水戸市の製紙会社に就職することになっていたのだが、仙台を旅立つという日の前日の三月二十三日、お袋と僕と三人でいるとき、次兄はマンガ本を読みながら独り言でもつぶやくかのように言ってくれたのだ。
「夫婦の問題には、親戚の者であっでも子どもであっでも第三者がとやがぐ口を出しだりするもんでねえわな。んだがら、逆にいえば夫婦のあいだでのいざこざを子供に押し付けるというのもよぐねえと思うんだ。親父んどごに金をとりにいぐのはやっぱり、かあちゃんがいぐべぎだべな」
 当のお袋は聞こえているのかいないのか、もくもく繕いものをしている。次兄も表情ひとつ変えずにマンガ本を見やっている。僕だけひとり、やたら教科書をめくってみたりラジオのつまみをぐるぐる回したりしていた。
 それから三日後の金を受け取りにいく日、お袋は自分で病院へいった。

黄色のダリア

 その次兄も、就職がきまるときにはひと悶着があった。工業高校だからそう就職先に困ることはないのだが、成績が電気科では最低クラスで、しかも二年のときグレかかって昼間からタバコと酒ををやっているのを補導員に見つかり、一週間の停学処分になった過去が就職先を極端に狭める結果になったのだ。その停学も本来なら退学扱いになるところを、同じ電気科を卒業した先輩でもある長兄が先生方に頼みこみ、どうにか停学に収めてもらってのことだった。
 次兄が就職できる会社といったら、市内の小さな電気工事店だけだったが、次兄はがんとしてその会社へはいこうとしなかった。
「俺は高所恐怖症だがらや。電柱とか屋根の上なんがぜんぜんだめだっちゃ」
 というのがその理由だった。なんとしても地元に引き止めておきたいお袋は、
「やっと働げるどきになっで出ていぐはねえべや。康平だってまだこのとおりだし、清太郎おんつぁんに借りでる金だっで返さねげなんねんだど。でいていにして、その会社を断っだらどごに就職するつもりなんだ?」
 と説得した。長兄もそれを援護して、
「高いどごろは誰だっておっかねえにきまっでっぺや。仕事としでやっでれば、段々と慣れでいぐものなんだ。なんだったら電力会社にいっでる友達がいるがら聞いでみねえが。やっぱり最初のうぢはおっかなぐで足がガタガタ震えでだっで言っでだど」
 などと、まくしたてたが、
「大丈夫だ。自分で探すがら」
 と言って取り合わなかった。
 一高校生が自分で就職先を見つけてくるというのは、僕の目にも無理があるような気がしてはらはらしながら見守っていたが、秋も深まった同級生たちはほとんど就職がきまったという時期のある日、次兄は大家さんから、水戸に嫁いでいる娘さんのご主人が勤めている会社が工員を募集しているというのを聞きつけてきた。次兄はここぞとばかりに大家さんを通じて紹介してもらった。
 その数日後、次兄がその娘さん宛に挨拶の手紙をしたためていたときのこと。僕しかいなかったせいもあるのだろうが、万年筆を走らせながら次兄はぼそっとつぶやいた。
「こごにはいだくねえがらなあ。ほんどは船にでも乗って毎日海を眺めでいだら気持ちいいんだべげどなあ。ああいうどごに就職すんのはどうしだらいいが、わがんねえしなあ。電波高でもいっで通信士にでもなっでればいがったんだべげども、俺の頭で国立は無理だがらなや」
 笑いはしていたものの、淋しげな目を何度もしばたたかせていた。
 その一週間後、製紙会社から面接試験の通知が届いた。お袋はそれでも反対の立場をとっていたので、水戸までいく汽車賃や宿泊代などは出そうとしなかったが、次兄はそれまで新聞配達などで溜めた自分の貯金を遣っていってきた。次兄が帰ってくるのとほとんど同時に、電話局の職員が配達していった内定通知の電報を見るに至っては、お袋も長兄も文句は一切言わなくなった。