その7

 四月、予定どおり東京に出て曲がりなりにも社会人としてのスタートをきった。職種は修理部門で、最初の三ヵ月だけ研修を受けたが、それを過ぎると車の免許は持っていないので助手席に乗って補助的な仕事をして廻った。二年目に入り、そろそろ一人立ちしなければいけないというので、それにはまず車の免許を取得する必要があった。それも、毎日自動車学校に通うのでは仕事の割振りがややこしくなるというので、冬場仕事が暇な時期に合宿で取ろうということになった。
 その年の十一月、もう一人の同僚と二人して千葉県鴨川市にある自動車学校にいった。宿泊所は近くの寺の民宿施設で、二十日間の集中講義を受けた。毎日二時限の講習を受けるだけで、あとは学校の目の前にある打ちっ放しでゴルフの練習をやってみたり海岸を散歩したり、一度は鴨川シーワールドにもいった。それで給料もきちんともらえたのだから、いうことはなかった。
 予定どおり免許を取得したが、その際費用の二十万円は会社から借りる形をとった。ただし、その時点からまる五年間を勤めあげれば返済は免れるという内容になっていた。
 鴨川から帰ってきた日、さっそく総務部長がやってきて借用証書を書くように言った。
「ここに横瀬君の名前と判をついて、それに連帯保証人としてお父さんの名前を書いて、横瀬君の判とは別の判をついてください」
 別に借金を踏み倒すつもりなど毛頭なかったから言われるままに書き、判も二種類別のをついて出した。

 仕事は可もなく不可もなくというところで三年、四年と過ぎていった。このころになると、仕事は完全に覚えてむしろ惰性状態になっているといってよかった。レストランやラーメン屋の厨房の、機械油とは違うススと食用油に塗れた中での冷蔵庫の修理は頭から足先まで汚れてしまう、いわゆる典型的な3Kの職業なわけで給料がそれに応じたものがもらえればまた違うのだろうが、毎年の昇給は微々たるもので僕は除々に仕事に限界を感じるようになっていた。
 そんなときだった、会社に分裂騒ぎが起こったのは・・・。
 発端は実の兄弟である社長と副社長の兄弟喧嘩だった。まず副社長が取締役会で追い出され、何人かの腹心の部下も辞めていった。そして間をおかず、“大昭和冷機株式会社”に対抗し、“新昭和冷機株式会社”なる新会社を設立したのである。それにともない、地下工作で営業部、技術部の連中にも新会社にこないかという勧誘がくり広げられた。
 その誘いはある日、僕にも廻ってきた。驚いたことに話しをもってきたのは技術部担当の常務取締役で、めったに話しを交じわすこともない人だった。
「断るならそれでもかまわないから、俺が辞表を出すまでは絶対内緒にしててくれよ」
 喫茶店に呼び出されて聞かされた第一声がそれだった。
「しかし、常務が新しい方にいくとは思いませんでした」
 半信半疑の僕に、常務は苦笑して答える。
「まあ、俺にも夢があるからな。というのも新昭和冷機でやっていくつもりはなくて、技術部はサービス専門の別会社として独立するつもりなんだ」
「え、と言いますと?」
「つまり新昭和は製造、販売を担当して、修理は我が東京冷機サービス株式会社が担当しようというわけさ。まあ、まだ仮称だけどな。悪くはないだろう」
 常務はそう言って会心の笑みを見せた。
「へえ、そんなことを考えてるんですか」
「サービスを売り物にして業績を延ばし、将来はメーカーになるつもりだ。普通なら造る方から先にやるだろうが、あえてその逆をやっていこうということさ。それこそ逆転の発想ってわけだ。そして十年後に東証の二部上場を目標にしている」
 子供のように目を輝かせて言った。考えてみれば、常務の肩書きをもっていてもまだ三十代半ばという年だ。そんな夢をもっていてもおかしくない年代なのだ。「将来独立するとしたら、会社を起こす様を肌で勉強できるいい機会じゃないか。なにもないところからはじめるわけだからリスクは大きい。でも二十代のうちならいくらでもやり直しはきくさ」

青い三枚の花びら

 この業種は商店街の中に店舗を設ける必要もなく、端的にいえば車と工具類だけを用意できればいいので比較的容易に新しく個人商売を起こすことができる。実際数人程度の仲間で独立していった人を何組か見てきている。常務はそれを言っていた。そんな気はさらさらなかったが、いずれにしろそこまで勧められては、なにか変化を求めてうじうじしていた僕に断る理由はなかった。
 その週の日曜、勉強会をやっているという恵比寿駅近くのマンションにいってみると、課長クラス三人とほかにも何人かのメンバーが揃っていた。本屋で買いこんできた、“株式会社のつくり方”とか、“登記のしかた”など、素人向けの本をそれぞれが回し読みをしていた。株式会社設立というと聞こえはいいが、会社ごっこをやっているといった方がピッタリだった。
 そんなことで、工場、営業、技術それぞれが見事真っ二つに割れた。大昭和に残った幹部連中ははじめのうちは鼻でせせら笑っていたが、新工場ができ営業や技術の平社員が相当移ることがわかってくると、慌てて引き留め工作をやってきた。僕の直属の課の課長は残る方で、僕に考え直すように説得してきたがその場で断った。というのも、いままで仲よくやってきた人とトラブルは起こしたくなかったので、僕自身は既に新しい方にいくことを通告してあり、内々のうちに承諾を取り付けてあったのだ。
 常務たちが辞表を出したあとの三ヵ月後、僕は予定どおり給料は二十日締めだったので、その月の二十日付けで辞表を提出した。ところが課長は、
「明日からは出てこなくていいよ」
 と険しい表情で言ってきた。裏には社長の厳命があってのことのようなのだが、僕もしかたなく負けずに言い返してやった。
「給料はきちんと二十日までの分を払ってくださいよ。明細書はここに送ってください」
 新たに借りてあったアパートの住所を書いた紙切れを渡して、会社をあとにした。
 こんな気まずい思いをしたくなかったからこそ早めに通告しておいたというのに、世の中そううまくいくものではないことを肌身をもって知るところとなってしまった。
 そして給料日の二十五日、銀行へ引出しにいってみると、本来の三分の一ほどの金額しか入っていなかった。翌日届いた明細書を見ても、二十日付けどころか僕が会社にいった最終日よりも前の日で計算していることがわかった。
 それでもそんなことは気にせず、抗議をするでもなく放っておいた。というのは、免許を取った際の二十万の借金は、返さなくともいい条件の五年勤務を満了することなく退社してしまったから、返却しなければならなかったのだ。僕の給料はまる一ヵ月分でも二十万には届かない。だから相殺してもこっちの懐が痛むことはないのだった。
 一ヵ月ほどたったある日、総務部長から二十万を返すよう電話があったが、当然僕は給料のことについて抗議した。
「それなら給料を二十日までの分を支払ってください」
「それはね、まったく別個の問題であってごっちゃにしてどうこう言うのはおかしいんだよ」
 まったく勝手な理屈があったものだ。
「給料をきちんと清算するうちは返すつもりはありません。あとは好きにしてください」
 電話は一方的に切った。こうなれば話し合いの余地などないのだ。