その8

 それからの電話は、なにを言ってきてもいつも事務所に残っている社長と経理担当の人に協力してもらって、ひたすらとぼけてやった。そうしたら二ヵ月もたったころ、こともあろうに総務部長は親父を連れて会社にやってきた。
 僕は外廻りをやっていて会わずにすんだが、総務部長の卑劣なやり方にむかむかくることしきりだった。しかし同時に、借用証書の保証人に親父の名前を書いたのを思い出した。しまった、と思ったところであとの祭りだった。
 それでも放っておいたところ、ある日昔見たことのある一通の封書を突き付けられることになった。家庭裁判所からの呼出状である。申し立て人は親父、内容は借金の借用証に勝手に自分の名前を使われたことに対する親子間での調停依頼である。
 正直、これには参った。裁判所を相手にしてまで知らんぷりをきめこんだのでは、自分の立場をなおのこと悪くするばかりだ。僕はしかたなく指定された日、帰郷を兼ねて仙台の家裁まで足を運んだ。
 その当日、廊下で顔を合わせた親父は髪は真っ白になり、すっかり薄くなっていた。言葉を交わすこともなく、互いに視線を反らして離れた長椅子で呼び出されるのを待っていた。
 時間がきて係官から案内された部屋は、テーブルと座布団が並べてある普通の八畳ほどの和室であった。テーブルを挾んで親父と正対してすわる。それを待っていたかのように、初老の男と女が入ってきた。
「今回の事件を担当させていただくことになった調停委員です。よろしくお願いします。それではさっそくですが訴えはお父さんから出されてますので、まず、おっしゃりたいことをひととおりお父さんに言っていただきましょうか」
「ええ、まあ、言いだいこどもなにも訴状に書いであるどおりですから」
 親父は怒ったようすも見せず、あっさりした調子で言った。
 調停委員が書類に目をとおしながら言う。
「そうですか。それでは息子さんにお伺いしましょうか。どうして借用証書の保証人の氏名に、お父さんの名義を無断で使うようなことをなさったのですか。いくら親子のあいだであっても許されることではありませんよ」
 と、むしろ調停委員の男の方が詰問調で訊いてきた。
 僕は一瞬たじろいだが冷静に応じる。
「まず、その前に家庭内の事情から話しておく必要があるんですが、親父とお袋は事実上の離婚状態で僕が小学四年のとき家を出たままです。兄弟三人はお袋の側についた格好になっています」
 次に以前使っていた僕自身の大昭和冷機時代の名刺、新昭和冷機に移った同期の営業マンから借りてきた名刺、そして東京冷機サービス株式会社と刷られた僕の名刺と、三枚を並べて会社が分裂した経緯を説明した。さらにそういう中で、まともな給料を払ってもらえなかったことへの対抗手段として借金を返済していないこと。親父の名義を書いたのは、総務部長から何気なく言われてそのとおりにしてしまったことを話した。
「なるほど、そういうことでしたか。それにしても保証人の名義にお父さんの名前を勝手に使ったのはまずかったですね」
 先ほどとはうって変わって、男の調停委員は笑顔さえ滲ませながら言った。
「ええ、入社するときの身元保証人には長兄の名前を使ってるんですけど、親父の名前を書くように言われて、つい・・・。兄の名前にしておけばこんなことにはならなかったんですが」
 自分の間抜けさに顔を歪めていると、二人の調停委員とも僕に同情してくれ、お茶を勧めてくれた。
「それで、とにかく借金はなんとかしないといけないわけでして、どうするつもりですか?」
「払います。第三者を巻きこんでしまった以上、二つの問題をいっしょにするわけにはいかないでしょう」
「そうですね、それがいいですね」
 調停委員は今度は親父の方を向き直った。「お父さん、どうでしょう。息子さんはこう言っておられますし、仕事も立派にやっておられるようですしね。二十万を大昭和冷機に返済なさったら、なにもなかったということにはできないでしょうか?」
「ええ・・」
 親父はすんなり顔を縦に振った。東京まで出てきたときの交通費、宿泊費とか、最悪の場合慰謝料まで請求されることを覚悟してきてのことだったから、意外といえば意外だった。
「それじゃ、裁判官と書記官を呼んできますからそのままお待ちください」

白い小さな花二つ

 ほどなく、女性の裁判官と恰幅のいい書記官が現れた。
 これまでの経過を調停委員は逐一説明し、最後には僕を擁護してくれるような発言までしてくれる。
「まあ、実社会では気安い気持ちで親を保証人に仕立てるなんてことはよくあることなんですね。今回の場合も息子さんは悪意でそういうことをやったわけでもないようですし、大昭和冷機がまともに最後の給料を払ってくれなかったということも絡んでまして、こんな事態になってしまったわけなんですね」
 調停委員がそこまで言ってくれたのだから、僕ははもう、八方丸く収まることを確信した。ところが裁判官はメガネを直し、きっとなって言う。
「事情はどうあれ、あなたが無断で父親を保証人にしたてた事実は立派な犯罪にあたることなんです。これが親子のあいだでのことでなかったら、あなたはりっぱな前科者になっているところなんですよ。それがわかってますか?」
「は、はい」
 僕は肩をすぼめて答えた。さらに横から書記官が嵩にかかってものを言ってくる。
「とにかくお父さんに対して悪いことをしたんだから、謝んなさい」
「す、すみません」
 やっとのことで声を絞り出すようにしてそれだけ言うと、頭も下げた。
「それじゃ、お父さんには訴えを取り下げるこの申請用紙をお渡ししておきますから、借金が返済されたのを確認しましたらそれをこちらに提出してください」
 そしてまた、書記官の顔は僕を向く。「東京にもどったら一日も早く大昭和冷機の総務部長さん宛に、二十万は返済してください。その際お父さんに、返してもらったということを速やかに連絡するよう伝えておいてください。あなたもその旨を私宛に直接電話をください。その手続きにまちがいがなければ、この事件はそれで落着します」
 さすがに書記官だけあって、やること言うことが事務的ですっきりしていた。
 ともかくもその場はそれでお開きとなり、予想してたよりは無難に終了した。同時に法律の厳しさを思い知らされる結果ともなった。
 用件がすむと、僕は部屋を出て足早に廊下を歩き外に出た。あとを親父が歩いてきていたのはわかっていたので、なにかを言ってくるかと思って心の準備はしていたが、結局呼び止めることもなく、玄関を出ると僕は駐車場に、親父はまるっきり猫背になった背中でとぼとぼ道路を横断すると市電の停留所に立った。
 間をおかずやってきた市電に乗りこむと、こちら側には後ろ向きにすわり、車に乗ってじっと見やっていた僕をちらっとだけ見て、視線が合うとすぐ顔をもどしていってしまった。