6章  大きな銀蠅

 午後のホームルームが終わったあと、担任教師の井上が良次のところまで寄ってきて、耳打ちするようにして言った。
「滝田さん、ちょっとお話ししたいことがあるから相談室にきてください」
「は、はい」
 きょうはバイトがある日なのですぐに帰るつもりでいたが、いったい何事かと思った。
「滝田、おまえなんかやったな」
 前の席にすわる同級生がおもしろがって冷やかすと、周りの生徒たちも「十八になったら禁煙するって言ってたじゃないかよ」と、いっしょになってあらぬことをはやしたてた。
 しかたなく鞄を持って相談室へ向かった。呼び出しをくうような悪いことをした覚えもないので、たぶん進学に関することだろう。いや、今さらあらたまって相談するようなこともないはずだし・・・、と考えて、言い知れぬ不安が胸の中に沸き起こった。
 憂鬱な気分で相談室の扉を開けると、正面の椅子には既に井上が腰をかけて良次がくるのを待っていた。
「実はね、さきほど五時限目のときにお父さんが見えられて、いろいろお話しなさっていったのね」
 その一言を聞くと、頭がグゥワーンと鳴ってしまった。父の存在をすっかり忘れてしまっていた。
「話しといいますと、どんなことを話していったんですか?」
 井上は眉間にしわを寄せて、苦痛にも似た顔になって言った。
「電話でこちらへ伺うと聞いたときには、てっきりあなたのことでくるのかと思ってたら、そうじゃなかったのね。お父さんとお母さんは離婚なさってるんですって?」
「ええ、まあ」
「滝田さんの家庭調書にはお父さんもお母さんも同じ名前になってるし、二年のときの担任の先生からもそのような引き継ぎは受けてないのね。お父さんがそんなことを話していくもんだから、あれっと思っちゃってね」
「はあ」
「それで滝田さんはお母さんといっしょに住んでるのよね?」
「はい」
「滝田さんの名前は、”滝田”のままでいいのかしら?」
「それでいいんです。お袋の籍に入ってますが、姓は旧姓にもどさずに親父の姓をそのまま名乗っているんです」
 両親は、良次が高校一年のときに家庭裁判所での調停による離婚をしていた。父は遊びほうけてまともに家に寄り付くことはなく、母の方から離婚を申し立てていたがなかなか話しがまとまらず、良次が高校生になってから決着がついたのだった。
 そのとき兄は既に働いており特に問題はなかったが、良次のことをどうするかでひと悶着があったらしかった。父は良次を引き取りたがったが、良次としてはそんな父につくことは考えられず、母もなんのためらいもなく良次を引き取ることに同意し、結局家裁の裁判官も母の言い分を認めるに至った。
「そうだったの。それでお父さんが話していったことは、あなたがお父さんのいうことをきく子供にしてほしいとか、お母さんがどうのこうのって悪口を並べたりしてね。かと思うと、お母さんと縁りを戻したいみたいなことも言うのね」
「そうですか」
 ここまで言われると、良次は赤面するほどに恥ずかしく、穴があったら入りたいというのはこのことだろうと思った。
「ごめんなさい。あなたに言ってみてもしょうがないわね」
 井上は既に三十を過ぎたベテランの女性教師だが、まだ独身なのでそういった男と女のどろどろした話しなど、まともな対応ができるはずもないと思った。なによりも井上の言うとおり、一高校教師に言うようなことではなかった。「それでね、お父さんがあなたに会いたいからK公園にきてほしいってことなの。いってもらえるかしら」
「K公園ですか、わかりました。どうも、やっかいかけました」
 すぐにいってみるつもりで、井上に一礼をすると立ち上がった。

火の用心

それにしてもよりによってK公園とは、とんでもないところを指定してきたものだ。
 理沙とは初デート以来、図書館でいっしょに勉強すると、きまってK公園で散歩するのを習慣にしていた。きょうはバイトがあるということを理沙も知っているので、図書館にはいかないはずだからいいようなものの、そうでなければ父と会っているところを理沙に見られて、家の中の見苦しいことを話さなければならなくなるところだった。
「私からお話しすることはそれだけよ」
「はい。それと先生、親父が今度こんなことを言ってくるようなことがあったら相手にしないでもらえませんか」
「そうね」
 井上はそれ以上は言葉が続かず、困惑の表情を浮かべた。
 良次は子供のめんどうも満足にみないような父を親と思ったことはなく、父に会いたいともまったく思わなかった。母と離婚して家に帰ってこなくなってからは、くだらない夫婦げんかを見ることもなくなり、あかの他人となったつもりでさっぱりしていた。
 ところが父のほうには未練があったらしく、一年に一度、学校に押しかけてきてはなにかしら理由をつけて良次を呼び出した。離婚してから一度だけ家にきたことがあったが、母が喧嘩越しになって父を追っ払って以来、母の知らないところでということで、学校にくるようになった。一年生と二年生のときの担任は年配の男の先生で、両親のもめ事をそれとなく気付いていたようで、良次にはなにも言わず、父の伝言を事務的に伝えてくるだけだった。両親の離婚のことも教えてはいなかったが、なにも訊いてくることはなかった。
 自転車を走らせるペダルは、これ以上ないというぐらいに重かった。会いたくはないが、いかずにしかとすれば、父の性格から二度、三度と押しかけてくるのは目にみえてわかりきっていた。とにかく会って適当な話しでもして、父の欲求を少しでも満足させてやる以外に方法はなかった。
 公園に着いてあたりを見渡したが父の姿はなく、もう帰っていってくれたか、とほっとしたのも束の間、脇に止まっていた車のドアが開いて、父が出てきた。
「元気そうだな。そこのベンチでもすわろうや」
 一年ごとに見る父は、白髪が増えて老けこんでいくのがはっきりわかった。生活もまともな暮らしをしているようには見えず、今は女といっしょに住んでいると人伝に聞いていた。
「去年までと違って、今は女の先生なんだから、あんまりよけいなことをしゃべるなよ」
 母の真似をするわけではないが、父と話すときはどうしてもけんか調子の話し方になってしまった。無理をして愛想のいい態度でもとろうものなら、いい気になって何度も押しかけてくるに違いなかった。
「男とはそんなに長話しをしようとは思わないが、きれいな女の先生なら話しもはずむってものだろう。かたいこと言うなよ」
「家の中のみっともないことをべらべらしゃべって、少しは恥ずかしいと思わないのか」
「なにが恥ずかしいんだ。人生模様ってものだろう。先生にだって生きた人生勉強が必要だろうが」
 父の性格は、普通の人には理解しにくい面があった。まるで、自分の恥さらしな生き様を人に話して聞かせるのを楽しんでいるかのように、平気で教えて歩いた。近所の人たちのあいだでは、滝田家の内輪もめを知らない者がいないぐらいに、みんながこと細かに知っていた。それは父自信が、茶飲み話しに聞かせて歩いているからにほかならなかった。
「・・・・・・」
 相手にしたところで、くだらない言葉の応酬になることはわかりきっていたので、黙って聞いてなるべく早く終わりにすることにした。
「就職じゃなくて進学するんだって? 相当金がかかるんじゃないか。俺が出してやろうか?」
 家族の生活費も学校の授業料も満足に出さなかった父が、大学の高額な費用を出すわけがなく、良次の気を引こうと口先だけで言っていることだった。
「かあさんの稼ぎだけでやれるわけがないんじゃないのか」
 ここまで言われると我慢がならなかった。
「おまえには関係ないよ。自分の力だけでやっていくつもりさ。誰の世話にもなるもんか」
「へえー、立派なもんだな。さすがに俺の息子だけのことはある。よし、じゃこれは入学金の足しにでもしておくといい」
 父はそう言って、財布から数枚の一万円札を取り出し、良次の手に握らせようとした。
「そんなものが入学金の足しにもなるわけがないだろう。いらないよ、こんなもの」
 良次が父の手をピシャッとやると、一万円札はヒラヒラと宙を舞った。父は慌てて右往左往しながら一万円札を拾い集めた。
「馬鹿な真似をするんじゃないぞ。俺が汗水たらして働いた金だ。父親が息子に小遣いをやろうっていうんだから、素直に受け取ればいいんだ」
 まちがっても父から小遣いなどをもらうわけにはいかなかった。最初に会ったとき、軽い気持ちで受け取った小遣いのことを母に教えたが、母は気が狂ったようにわめき散らし、金を受け取ったことはもちろん、会ったこと自体をも激しくなじった。だから二回目以降は、会ったことすらも母には内証にしていた。
 さらに父はしつこく良次の手に握らせようするので、良次は再度父の手を振り払った。
「いらないって言ってるだろう」
「それが親にむかって言う言葉か!」
 父は怒鳴ると同時に、右手で良次のほっぺたをビシッとやった。良次も負けずに左手で同じようにやり返した。
「なんだこのヤロウ!」
 父は今度は握りこぶしで良次の口許を殴ってきた。良次はたまらず後ろにもんどりうって倒れた。
「親を舐めるんじゃないぞ」
 負けじとばかりに良次は身を伏せて、頭突きをくらわすようにして父をめがけて突進したが、老たりといえど、もともとがっしり体つきをしている父は、両足を広げ身構えてどっと受け止めた。
 そのとき後方から、女の子の悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。
「おまわりさんよ。おまわりさんがきたわ」
 父はその声を聞くと一目散に駆け出し、車に乗っていってしまった。年のわりには素早い行動で、まだまだ若いんだなあ、と妙な感心をしてしまった。