9章  それぞれの彼女

 自転車のペダルは快調だったが、きょうの公園はいつもより遠く感じられた。気は焦るが、それでも公園はなかなか近付いてこなかった。途中にあるI高校の生徒たちが学校から下校する集団を追い越したころ、やっと公園の紅く焼けた木々が見え出した。さらに喫茶店の三角屋根が見え始めてからまもなく、理沙の姿も視界に入った。理沙も気が付いてしきりに手をふって、そのあとには両手を使って大きな動作でマルとバツをつくり、受かったのかどうかを訊いてきた。そんなに慌てなくたって、とは思いながら、良次もそれに調子を合わせるように喫茶店の建物のほうを指差した。すると理沙は、今度は両手を頭の上にもっていって、拍手をする真似をした。
 きょうの理沙は、三つ編みに束ねた髪をさらに頭の上にくるっと巻いていた。初めて見る髪型だった。
「よかったわね。まずだめだなんて言ってたのに」
「うん、どんじりでセーフってとこさ。法学部志望が効いたらしいよ」
「ふーん、そうだったの」
 喫茶店に入ると、予定どおりサンドイッチと、理沙はモカを良次はブルーマウンテンを頼んだ。
「高級なコーヒーは、砂糖を入れないで飲んだほうが旨いんだってさ」
 それはあくまで聞きかじりで知ったことで、どんな根拠があるかなどまでは、良次にわかるわけはなかった。
「ふふ、そう・・・。じゃ、カンパイ。おめでとう」
「へへ、オオタイサン」
 理沙は一瞬キョトンとしたがさほど気にも止めず、静かにコツンとカップを合わせた。良次がブレンド以外のコーヒーを飲むのは今回が初めてで、どんな味がするのかまずは一口、そっと飲んでみた。これがただ苦いばかりで、普通のブレンドコーヒーとどこが違うのかと思った。記憶ではコーヒーはブルーマウンテンが最高級品というイメージがあったが、少なくとも味の点においてはブレンドと変わりはなかった。
「おいしいわね」
 理沙がニコッとしながら言った。理沙がそう言うので、モカはブルーマウンテンとはかなり違うのかと思った。
「どれ、ちょっと」
 良次は理沙のモカのカップを取り上げ、試しに飲んでみた。確かに味の違いはあるが、理沙が言うような、おいしい、という舌ざわりはおよそなかった。「ほんとにおいしいか?」
「もう、こういうものは気分の問題でしょう」
「ふーん」
 だが理沙は、ニヤッとしながら小さく舌を出し肩をすくめて言葉を次いだ。
「ほんというとわたしもよくわかんないの」
「だろう!」
 良次は安心してためらいなく砂糖が入ったカップを引き寄せ、グラニュー糖をコーヒーカップに注いだ。
「さっきのオオタイサンってなあに?」
「ああ、ハハ。ありがとうって意味さ。ラテン語で」
「ふーん、ラテン語なんか知ってるんの」
 理沙はまじめな顔になって感心した様子で言った。
「冗談だよ。昔、テレビで薬のコマーシャルにあったろう。『大田胃散、ありがとう』って」
「ああ、なんだ。もう」
「イテェッー!」
 テーブルの下で、理沙の足の爪先が良次の弁慶の泣き所を襲った。横の席にいたサラリーマン風のカップルが、良次の悲鳴にジロッと見てきた。それは心配している目付きではなく、邪魔をするな、と言っている目だった。
「うふふ、ごめん。痛かった」
 公園と隣り合わせにある喫茶店のせいか圧倒的にカップルが多く、土曜日ということもあってあまり広くもない店の中は、ほぼ満席になっていた。
「でも四月からは東京いっちゃうのねえ」
「まだ決まったわけじゃないけどな」
 まだ大学まで合格したわけではないので、内心苦笑した。「ま、無理すれば数ヶ月にいっぺんぐらいは逢えるさ」
「うん、わたしも三年になったらアルバイトを始めるわ。そしたら二ヶ月に一度ぐらいだったら、新幹線で東京にいくわね。テレビで見たことあるけど、単身赴任なんかで東京にいる人とたまに東京で逢ったりするでしょう。遅くまでデートしてて、地方に帰る人が乗る最終の新幹線のことをシンデレラエクスプレスっていうんだって。ああいう風にね。ふふん」
 理沙は目をきらきらさせて語った。
「理沙は卒業してからのことは決心ついたのか?」
「やっぱり就職することにしたの。昨日、学校の調査があったんだけど就職希望にしておいた。おかあさんもあなたが決めたことならそれでいいって。それも東京よ」
「そうか。じゃ、一年我慢すればまた東京で逢えるな」
「ええ、待っててね」
 さらに理沙は顔を引き寄せ、上目使いになって言った。「浮気したらだめよ」
「はは、それほど器用じゃないさ」
 理沙のことにしても良次のほうから手紙を書いたわけでもなく、実際理沙以外の子に目を逸らすような気は起きたことがなかった。大学にいってからも、これまでやってきたこととは畑違いの道に進もうというのだから、そんな余裕などあるはずはなかった。
 話しは尽きなかったが、理沙は母と約束があって駅前まで出なくてはならないというので、喫茶店を出るとそのまま別れた。

 次の日、模擬テストの成果は精神状態がよかったせいもあってか、まあまあの出来だった。昨日の学内推薦に受かっていなかったら、今頃はしかめっ面をして豆タンでも見ながら歩いているところを意気揚揚と闊歩しているのだから、自分ながら勝手なものだと思った。
 バス乗場に向かう途中、赤信号で止まった交差点の手前で何気なく目に入った、ビルの一階のガラス張りの喫茶店を見ると、小むずかしい顔をした青柳がすわっていた。正面にはこれまた俯いたままでだんまりを決め込んだ、同じ年ごろの女の子がすわっていた。
(なにをやってるんだ?)
 二人向き合ってすわりお互いになにを話すでもなく、ふてくされた様子で喫茶店にいたところで、なにがおもしろいのだろうと思った。そうこうしていると青柳も良次に気付き、手招きして店に入ってくるように促した。青柳のデート中に割り込んだところでしかたがないし、信号も青に変わっており、どうしようかと思ったが青柳がしつこく呼びたてるので、やむなく喫茶店に入った。
「模擬テストの帰りか?」
「おまえ、なんでこなかったんだよ?」
「ああ、こいつと話しがあったもんだからさ。ほら、おまえが昨日言ってたろう。こいつさ」
 青柳の言葉で、その場の雰囲気のすべてが理解できた。
「ああ、どうも」
「・・・・・・」
 彼女はなにも言わず、頭だけをこっくり下げた。くるんじゃなかった、と思ってみても、もう手遅れだった。
「大学の試験はいつなんだよ?」
「来月、早々だよ。東京まで一泊でいってくるよ」
「ふーん、日帰りでもいけるんじゃないのか」
「うん、朝一番の新幹線でいけば間に合うけど、向こうにいって慌てたくないからな。余裕をもって前の日にいくことにしたのさ」
「いいよな。推薦入学の試験なんてあってないようなものだからな。将来は弁護士さんか?」
「ばか言え、司法試験なんて受かるわけないだろう。それよりおまえのほうこそまともな勉強さえすれば、一般試験で充分受かる実力はあるんだからさ。模擬テストぐらいきちんと受けてたほうがいいぞ」
「いや、それどころじゃなくて、卒業自体があぶなくなってんのさ。こいつが親なんかに言うもんだからさ。学校じゃ調査中だってさ。これもんかもしれないんだ」
 青柳は手刀で自分の首を切る真似をしながら言った。
 過去にもそういった例は何度かあったということは、先輩からもクラブの顧問教師からも聞いたことがあり、もしかしたらとは思っていたが、青柳自身が言うのであればその気配濃厚といえるかもしれなかった。
「まだ決まったわけじゃないだろう。そんな捨て鉢になることもないさ」
 すると青柳は良次の言葉など眼中にないようすで、彼女に当て付けがましいことを平気で言った。
「こいつが産みたいなんてぬかすもんだから、なにもかも予定が狂ってしまったよ。高校生が子供つくって育てられるわけがないじゃないかよ。なあっ!」
「・・・・・・」
 青柳は良次に同意を求めるように言ったが、本人を目の前にして良次がどうこう言うようなことではなかった。彼女は相変わらず下を向いたまま、一言も発しなかった。
「黙って堕ろしてくれてりゃ、よけいなめんどうを起こさずにすんだんだよ。親だって堕ろせって言ってるしさ」
 良次は、喫茶店には入るんじゃなかった、とつくづく後悔した。赤で止まらせた信号を恨んだ。「おまえからも言ってやってくれよ。このままじゃ手遅れになってしまいそうなんだ。生まれてくる子供だってかわいそうってもんだろう。な、そうだろう」
「よせよ。おまえにだって責任はあるだろう。先に帰るよ」
 もう我慢がならなかった。良次は一口も口をつけていないコーヒーの代金をテーブルに置くと、立ち上がってそそくさと喫茶店をあとにした。