3 エイズにこだわる女

 携帯電話を手にすると、二十数ヵ所登録してある番号の中から一つを選び自動発信させた。
『男女の出会いの場、“シェークハンド”に電話をくれてありがとう。女の子から電話がかかってくるあいだ、そのままで待っててくださいね』
 と、若い女の声でアナウンスされたあとにはドラムの音が騒々しい、今井にとってはうるさいだけの音楽が聞こえてきた。
 それから首を長くして待つこと十分、
『さあ、用意はいいですか。電話がつながります』
「もしもし、こんばんわ」
『こんばんわ。年はいくつぐらいの方ですか』
「三十を少し越えたとこなんだけど、おじさんは嫌いかい?」
『いいえ、別に気にしませんよ』
「そう、そりゃよかった。たまに声を聞いただけで切られるもんだからさ。年はとりたくないもんだね。君の年はいくつなんだろう」
『二十二です』
「若過ぎず、ちょうどいいころだなあ」
『普通のサラリーマンですか?』
「いや、フリーのライターさ。だから時間は気ままになるんだけどね。君は女子大生かい?」
『いいえ、OLです。ライターってことは要するに作家ですよね』
「そんなカッコのいいものじゃないさ。雑誌の隙間を適当に文字で埋めていくようなもんでね」
 などと言いつつ、顔はついほくそ笑みながら、ビールもどんどん進んでしまう。「ところで写真のモデルになってほしいんだけど、どうだろう。もちろんモデル料は出すよ」
『プロのモデルになるつもりはないからお金は入りません。写真てどういう写真ですか?』
 願ったり叶ったりのタイプだった。
「そりゃヌード写真さ。だめかな」
『変なエッチっぽい写真だったらダメ。将来子どもにも見せられるような嫌らしくないものだったらいいです』
「ふーん、もしかして人妻かい?」
『まさか。きれいな身体は若いうちだけでしょう。それだったらあとあと記念になるような写真がいいじゃない』
「うむ、なんだったら外で撮ってやろうか。自然の中での全裸っていうのは最高に開放的な気分になるよ」
『誰もいなければかまわないけど、やっぱり室内にしてえ』
「わかった。ラブホテルでいいかい」
『ええ、でも写真撮るだけなんですか。エッチはしないの』
「ご希望とあらばいくらでもするさ。けっこう強い方かい?」
 今井は冷蔵庫からもう一つ缶ビールを取り出した。
『ひと晩に2、3回ぐらいなら平気だけど。おじさんは・・・じゃ悪いかな、ハハ。名前はなんていうんですか?』
「ええと、今野だよ。君は」
『菊池綾子です。最終学歴は大学ですか?』
「まあね。東京の金さえ出せば誰でも入れる大学だったけど」
「ふーん、身長はどれぐらいですか?』
「ここしばらく計ったこともないけど170センチぐらいだよ」
『体重は?』
「72、3キロだったかな」
『じゃあ、どっちかというと普通の体型ですね。顔は二枚目ですか?』
「さあ、どうかな。自分で二枚目とは言いにくいけど悪くはないつもりだけど、ウハハ。それにしてもずいぶん細かいことまで聞くんだなあ」
『面食いなんです。醜男とエッチするのはいやですから』
「男と違って女の子はそんなに見かけにこだわったりしないものだけど、まあ人それぞれだからね。ところで君はどんな感じの子かな」
『小柄でストレートのロングヘアです。特に美人てわけじゃないけど、がっかりさせることはないと思います。ところで今野さんはエイズは大丈夫ですか?』
「必ずコンドームは付けてるから感染はしてないと思うよ」
『そのことで一つどうしてもお願いしたいことがあるんです。聞いてくれます』
「ああ、なんだい?」
『地下鉄の五橋駅近くに性病科がある笠原病院というところがあるんです。そこでエイズ検査を受けてほしいんです。それでなんでもなかったら、という上でのことにしてほしいんです』
「え、そこまでやるの」
『お願いです。ヤクザのお兄さんにこられるのも恐いけど、エイズだけはシャレになりませんから受けてくれませんか』
「でもなあ、あれは結果が出るのに一週間ぐらいかかるんだよ。それからまた連絡をとって会うというのも面倒だしなあ」
『それは保健所なんかでやってるスクリーニング法と呼ばれる検査法です。エイズウィルスに感染すると必ずそれに対する抗体ができるんですけど、血液中にその抗体があるかないかで感染の有無を判断する方法なんです。そこの病院では酵素抗体法といってウィルスそのものを検出しますので、すぐに結果が出るんです』
「へえ、詳しいんだなあ」
『二週間ぐらい前に検査を受けてきたからです。陰性の結果が出てほっとしているところです。今野さんがどうしてもというんでしたら外で撮ってもいいです。ホテル代も私が払ってもいいですから検査だけはしてくれませんか』
「ホテル代ぐらい俺がもつけどさ。まあ、外で撮らせてくれるということでもあるし、やってみるか」
 スケベ根性が勝ってしまったということでもないのだが今井自身、佐智子が亡くなってからこれまで二度、保健所で検査は受けていた。前の検査から一年が過ぎようとしていたし、そろそろと思っていたこともあった。
『よかった。信用しないわけじゃないんですけど、会うときにその検査表を見せてくれますか』
「ああ、わかった。でも結果が陽性だったら会う意味もなくなるなあ」
『うふ、エッチはできないけど写真を撮るだけだったらいいですよ。無理に受けさせてそのままじゃ悪いものね』
「そりゃ有り難いけど、そうなればなったで気分的にヌード写真を撮るどころじゃないかもしれないなあ。でも、会う日時だけは決めておこうか」
『明日か明後日に検査を受けてもらうとして、その次の日曜はどうですか』
「ああ、いいよ。あまり朝早いのは苦手だから午後一時ということでどうだい」
『わかりました。地下鉄長町駅から西に向かっていくと国道286号線と交差する通りがあるんですけど、知ってます?』
「ああ、わかるよ」
『二つ目の大きな交差点の手前左側にS銀行があります。その前で待ってます』
「向かい側に大きなホームセンターがあるところだね。で、どんな服を着てるかな。なるべく目立つ格好にしてほしいんだけど」
『そうですね。赤い薄手のコートを着ていきます』
 そのあともそれまでの経験や大まかな住まいの場所を教えあって、受話器をおくのはなにかしら惜しい気持ちながら電話を切った。
 ベートーベンの曲を今井には似合わないロック調の音楽に替えると、カメラ類を並べてあるキャビネットを開け、ここしばらく使っていない室内の人物撮影専用にしている二眼レフのカメラを取り出した。
 メロディーに鼻歌を合わせながらレンズの埃をブロアーで吹きかけてとっていると、ドアがコンコンと鳴った。
「はい、どうぞ」
 ドアがそぉーと開くとその隙間からは舞の顔が覗いた。
「電話終わったの?」
「えっ! 聞いてたのか」
 カメラは足でベッドの下に追いやった。
「話してるのだけはわかったけど、耳をそばだてて内容まで聞くような非常識なことはしてませんよぉーだ」
 二階は、いまは物置と化している佐智子との居間に使っていた部屋を挟んで両端に今井と舞の部屋があった。
「そう。で、なに? CDがうるさかったかな」
「別に・・。気になるほどじゃないから」
「なら、いいんだけど」
 舞はドアを少し開けただけのところに突っ立ったまま、足の指を交互に重ね合わせている。「どうした、なにかあったのかい?」
「たいしたことじゃないんだけど、お母さんから聞いたかなあと思って」
「いや、特にあらたまったことは聞いてないけどね」
「今度の日曜ね。お見合いすることにしたの」
「へえ、舞ちゃんがお見合いをねえ。考えてみれば二十三なんだからおかしくないよなあ」
「この前、四になった」
 ふくれっ面になって言った。
「ハハ、そうだったな。でも意外だなあ。舞ちゃんなら恋愛結婚するとばかり思ってたよ」
「わたしもそう思ってたけど、友達以上に進まなくて結婚対象にはならないみたい」
「まあ人生いろいろだからさ。でも、舞ちゃんの器量ならそんなに慌てなくてもいいような気もするけどなあ」
「お兄さんもそう思うでしょ。なのに、お母さんがいまが一番の熟れどきだからとにかく会ってみろってしつこいのよ」
 それまでうじうじしていたのが、とたんに目を輝かせて言うのだった。
「どうしてもいやならはっきり断ったらいいと思うけど、舞ちゃんに少しでもその気があるんなら一度は会ってみたら。案外ひと目惚れして恋愛感情が芽生えるなんてこともあるかもしれないしさ」
 またもや舞の表情は暗くなった。「あれえ、そんなネグリジェ持ってたっけ?」
 廊下の暗がりとドアがほんの少ししか開いてなかったので気がつかなかったが、うっすら透けて見えるネグリジェだった。
「ふふーん、もう大人だもーん」
 胸元を手で覆いながらドアを閉め自分の部屋にもどっていった。
 ドアが閉まる音を確かめてから、今井は再びカメラを手にした。