5 妊娠

 二人の従業員が先に引き上げていったあと、香奈子は帰るでもなく帳簿づけをしているおばの前でうろうろしていた。
「香奈ちゃんもそろそろいいわよ」
「うん、ちょっと頼みたいことがあって」
「なによ。お金の無心以外だったらなんでも聞くわよ」
 ハンカチをもみくちゃにしていた両手がはたと止まった。「あらあら、悪い予感が当たったようね。きちんとお給料は払ってるというのにそれ以上に必要なことがあるの?」
「あとあと長期のローンにでもしてもらえないかなあと思って」
「いくらぐらい入り用なの?」
 香奈子は指を二本立てた。「二十万。洋服だったら五割引にしてるでしょう」
「もうひとつ、ゼロがつくの」
「二百万ですって。半端な額じゃないわね。いったいなんに使うのよ」
「いまはなにも聞かないで黙って貸してほしいの。そのうち時期がきたら必ず話すから」
「そうは言ってもねえ」
 眉間に皺を寄せ、香奈子の顔に穴があくほどに睨む。「あなた、まさか」
 おばはやにわに香奈子の左腕をとると袖を上までたくし上げ、染みひとつでも見逃さないかのような様相で丹念に見ていった。
「そんなんじゃないわ」
 右腕は自ら全部を見せた。
「特に注射を打ってる跡はなさそうね」
 今度は背中のファスナーを外し、ワンピースを脱ぎにかかる。
「裸になるから全部見て」
 高校に入学して間もないころ、覚醒剤にまみれて逮捕されたことがあっのだ。初犯ということと父の努力により、なんとか鑑別所送りにもならず、学校にもしばらくは隠しおおせたが結局はわかってしまい、それがもとで退学になってしまったのだ。
「そこまでしなくたっていいわよ。車を買うつもりなの。この前、もう免許をとるつもりはないって言ってたでしょう」
「そうじゃないの。悪いことに使うわけじゃないの。もう少し待ってて」
「そのときってことじゃだめなの」
「急ぐの。おばちゃん、お願い!」
 カウンターに両手をつき、深々と頭を下げた。
「香奈ちゃんがそこまでするんだからよっぽどのことなのね。いいわ。でも少しづつお給料の中から返してもらうわよ」
「ありがと、恩に着るわ」
 おばに抱きつくと泣きじゃくった。
 香奈子が帰るとそれまで診療請求のためのカルテの整理をしていた母が手を休め、味噌汁の鍋をガスレンジにかけた。
「いいわ、自分でやるから。きょうはお父さんのところにいかなかったの」
 父は倒れて以来入院したままで、母は診察が終わってから毎日病院に駆けつけていた。香奈子も店に出る前には病院に立ち寄っていたが、夜は時間の関係上いくことはできなかったので母に任せていた。
「いったわよ。再度精密検査を受けたらしくて疲れてたようすだったから、早めに帰ってきたわ」
 また食卓のテーブルに腰を下ろすと凸レンズのメガネをかけ,再度電卓を片手に計算を始めた。
 母の診療は本来なら小児科だけなのだが、父が担当していた内科の患者も診察していたので、朝から晩まで息つく暇がなかった。患者を相手しているときの背筋はピンと張っていたが、こういうときの母の背はすっかり丸まっていた。
 ガスレンジの火を止め、鍋をテーブルにもってきたときだ。顔を上げた母がメガネを半分下に外した状態で、上目遣いに香奈子を見つめる。
「あなたひところより太ったみたいね。それに最近はウェストを締めようとしないわね。まるでマタニティドレスみたいよ。太ったのを隠すためなの」
 香奈子は言葉もなく、呆然となって母を見やる。「そんな顔してなによ。由美さんのところで働くようになって、やっと安心してるんだから脅かさないでよ」
 と穏やかな笑みを浮かべて言った。
「少しじゃなくて、かなり驚くと思う」
 母はメガネをテーブルに置き、顔からは赤味が消えた。
「まさか、それは太ったんじゃなくて」
 香奈子が小さくうなづく。「結婚したわけでもないのになんてことを。相手は誰なの?」
「奥さんがいる人」
「それじゃ私生児になるじゃないの。友達で産婦人科をやってる人がいるから、すぐに堕しなさい!」
 立ち上がってテーブルに両手をつき、香奈子に飛びかからんばかりの勢いだ。
「もう半年を過ぎてるの。それに最初から産むつもりだったから」
 伏し目がちながらも、毅然として言った。
「まったくあなたって人は、自分勝手なことばかりやって」
 椅子にすわり直すと頭を抱えてしまった。「生まれてくる子どものことを考えたことがあるの。あなた以上に何倍も苦しむことになるのよ」
「いろいろ考えた上でのことなの。それに相手の人が認知してくれるって言ってるし、場合によっては一時的に奥さんと離婚して、私を出産の前後だけ籍に入れて、そのあとまた奥さんにもどそうかとも考えてくれてるの」
「そんな形の問題じゃないでしょう。あなたはどこまでトラブルを起こしてくれたら気が済むの」
「ごめんなさい」
「お父さんはあのとおり入院したままだし、お母さんだって医院をいつまで続けられるかわからないのよ。ひとり娘なんだからしっかりしてくれないと」
「わかってる。これからは私なりにせいいっぱいやってみる。それで虫がいいのは承知の上なんだけど、婚姻届を出すようなときがあったら私は未成年だから親の承諾書が必要でしょう。そのときにはお願いね」
 母は返事をすることなく背を向け、奥の部屋に立ち去ろうとする。その足取りは心なしかふらついていた。
「はあ、血筋は争えない・・」
 そうつぶやいたあと一瞬棒立ちになり、後ろを気にかけた。
 その背中に向かって香奈子が静かに言う。
「お腹の赤ちゃん、男の子よ」
 振り返り、あらためて香奈子を見はしたが表情に変化はなかった。
 香奈子は食事もそこそこに自分の部屋に入ると着替えるのも忘れ、パソコンに向かうのだった。