5 事故の究明  その1

 萩野が足を引きずるようにして事務所にもどったのは、午後六時を過ぎてからだった。力仕事をしたわけではなかったが、車に書かれてあったコールサインのことが頭から離れず思いのほか気疲れしてしまった。
 留守番電話機を見ると、“伝言”と“用件”のイルミネーションボタンが緑色の光をチカチカ点滅させている。萩野は椅子に腰を下ろして、まずは伝言ボタンを押した。
『はあい、元気? 明日、模擬試験があるのできょうは午前中だけでした。一時間近くいたけど電話は一本もありません。お母さんとお買い物にいかなくちゃいけないので、きょうは早めに帰ります。じゃーあねえ、バイバイ。[金曜日、午後一時三十分]』
 ノーテンキな美圭の声だった。萩野は苦笑しながら今度は用件ボタンを押した。
『三件録音されています』
 だが、そのあとに流れてきたのはタイムスタンプ機能による電話がかかってきた時間を示す音声だけだ。いまいましく思って電話機を睨みつけていると、それに応えるように呼出音が鳴った。
「はい、猫の手サービスです」
『やっと帰ってたかあ。なんだい、昼過ぎにはもどるって言ってたのに』
 いら立ちをあらわに捲し立ててきたのは、ほかならぬ関口だった。
「ああ、すみません。そうか、関口さんでしたか。三回電話したでしょう?」
『留守番電話を相手にしゃべるのは苦手でね』
「いやあ、急に名古屋まで小荷物を届ける仕事が入りましてね。新幹線で往復してきて、いまもどったところなんです。それでどうでした、わかりましたか?」
『ああ、ばっちりさ。赤外線写真の威力はたいしたもんだよ。JA1UT×、まちがいなく佐々木さんのコールだね。もう一つもコールサインで7L1LH×。この局は葛飾区に住む中学生のようだね。それと被害者は福井県の敦賀市出身で名前は南条道夫、コールはJH9PC×。それでさ、二人と佐々木さんがどんなつながりをもってたのか知りたいんだけど、とりあえず美圭ちゃんに連絡をとって訊いてみてくれないかい』
「わかりました。すぐ電話してみましょう」
『いま署にいるんだけど、これからそっちにいくよ。詳しいことはそのときに』
 「プー」という発振音に変わるといったん指先でフックスイッチを押した後、美圭の家の番号を押し始めてから、ふと指を止めて受話器をおいた。
 四十九日が過ぎて納骨を終え、やっと落ち着きを取りもどした美圭だ。父親は殺されたのでは、という言い分も、萩野と関口の調査でどうにか納得させて矛先を収めさせた。それをぶり返させるような真似はしたくなかった。かといって、この件については完全な殺人事件に関してのことだから訊かないわけにはいかない。萩野は腕組みをして考えこんでしまった。
 しばらく足りない頭を駆使していろいろ策を練ったあげく、萩野は気だるそうに受話器をとった。
『はい、佐々木です』
「萩野ですけど、さっきはありがとう」
『あら、そんなことを言うために。めずらしいわね。それともひとりで淋しいの?』
「ううん、まあ、そんなとこだよ。ひとつ訊きたいことがあるんだけど、佐々木さんが使ってたログとか整理簿はいまでもとってあるかな?」
『ええ、もちろんあるわよ。それがどうかしたの?』
「数年前に佐々木さんたちといっしょに、フィジーからDXペディションをやったことなんだけどさ。あのときのQSLマネージャーは一切俺が引き受けただろう。7L1LH×とJH9PC×という局からまだカードが届いてないけど、どうしたんだっていう催促の手紙がきてさ。俺の整理簿を見てみたんだけど載ってないんだよ。それで佐々木さんがQSOをやった局じゃないかと思うんだけど、念のため確かめてくれないかな」
『ふーん、もう四年くらい前のことでしょう。物好きな人もいるのね。7L1LH×とJH9PC×ね。ちょっと待ってて、調べてみるから』
 これなら美圭に変な疑いをもたれることはない。受話器が「コトッ」というのを聞くと、萩野は満面に笑みを浮かべた。

留守電

 佐々木と知り合って一年ほどしてからのことだ。佐々木が数人の仲間とグァムから電波を出す計画をしていたが、予定していた人が都合が悪くなって人数が足りなくなりツアーが組めなくなるというので、急きょ萩野に誘いがかかった。はじめのうちはハムになってそれほど時間がたっていなかったし、英語でのDX通信はまったく苦手でもあったので丁重に断ったが、普通の旅行気分でくればいいというので結局はのこのこついていったのだった。
『どちらもないわね。特に1エリアの最初に7が付く局は数えるほどしかやってないわ』
「そうか。整理簿になくても佐々木さんの知り合いにそのコールをもった人はいないかな?」
『うーん、わたしの知る限りそんな人はいないわよ。ほんとにそれだけのことなの?』
「あ、あたりまえだよ。なにも、あ、あるわけないじゃないか」
 突如とした美圭の逆襲に、萩野のろれつはよく回らなかった。
『それにあのころ、7L1のコールはまだ免許されてなかったんじゃないかしら?』
 萩野は一瞬絶句したが、気を取り直して言う。
「なに言ってんだよ。とっくに下りてたよ。それじゃ、ほかの人にも訊いてみるから」
 美圭の返事はろくに聞かないまま電話を切った。
 うかつだった。JS1の再指定が終わって7K1のコールサインの付与が始まったのは、まだ三年とたっていないのだ。タバコをとる手もつい震えてしまう。煙をふっーと天井に向いて吹き上げながら、じわり滲んできた頬の冷汗を拭った。
 とにかく、二局とも佐々木の知り合いでないことははっきりした。念のため萩野自身はQSOをしたことがあるのか、ログのページを逆に追いかけていったが、どちらの局も見当たらなかった。HF用ログと整理簿も見てみるつもりで、部屋にもどってそれらを取ってくるつもりで腰を浮かし、現在記入している最後のページを再度開いたところで、なんと“7L1LH×”が目に止まった。正規にコールサインを書く欄ではなく、下部の余白にメモってあっただけのものなので気がつかないでしまっていたのだ。
「ええい、なんてこった!」
 萩野は腹立ちまぎれにタバコをガラス扉に投げつけた。
「おおっと、殺さないでくれよ」。
 そのガラス扉をおどけ半分に開けたのは関口だった。「どうしたんだい?」
「二つの局とも佐々木さんがQSOした相手にはいないようです。それより、これを見てください」
 萩野は走り書きで“7N1LH×”と記してある部分を指差した。
「これはハギさんがQSOをやったということかい?」
「ええ、ちょっと話しただけで正式のQSOというわけじゃなかったものですから、メモしただけで終わってしまったんです。佐々木さんが事故を起こしたとき交信してた相手がこの局なんですよ」
「なんだって?」
「あの事故の日、俺と佐々木さんがQSOをやってて俺が引っこんだあと、佐々木さんを呼んで道を尋ねたのがこの局なんです。交信途中で電波が途絶えたのが、あとからその時間とそのときのようすを重ね合わせて考えると、事故を起こしたときなんです。そのあとLH×局が何度か佐々木さんを呼んだものですから、俺が出ていって機械の調子が悪いんじゃないかと説明したわけです」
「そういうことか。しかし、おかしいな。その局はモービルだったわけだろう?」
「ええ、そうですよ」
「十四歳の子が運転できるわけないんだけどなあ」
「あ、そうだった、中学生ってことはないですね。少なく見積もっても四十はいってる声でしたよ」
「ということは、勝手に他人のコールを使ったということだ」
「ふーむ、単に免許をもっていないせいなのか、それともあとあと自分を特定されると都合が悪いというような特別な理由があってのことでしょうかね?」
「いまはまだなんともいえないなあ」
 関口はどっかり椅子に腰を下ろすと腕組みをした。
「ところで死んだ被害者はどんな人なんですか?」
「東京では独り者だが三十五になる既婚者でね。現在の住まいは車の登録どおり多摩市だが、出身の敦賀市には別居状態の奥さんと子供がいる。二年前に東京に出てきて同じ多摩市内の不動産会社に勤務したが一年で辞めてる。バブルが弾けて不動産業が左前になり、給料は歩合制だから段々落ちこむようになって自分から辞めていったというのが社長の話しだね」
「いまはどんな仕事をやってたんですか?」
「それがよくわからないんだ。近所の人の話しでは普段はゴロゴロしていたが、土、日は出かけることが多かったというんだな。不動産会社の元同僚の話しでは競馬に凝っていたというから、たぶん競馬に通ってたんだろうということに落ち着いてる。だからといって、競馬で飯が食えるほど世の中甘くないわけだから、なにか生活の糧がないとおかしい。車だって自前のを所有してたしね。女が出入りしているのを何度か隣りの住人が見ているが、その女が誰なのかまだなにもわかっていない。だからいまの時点では、その女が重要参考人ということになっている」
「被害者の南条は、このスジのたぐいってことはありませんか?」
 萩野は頬に傷のある仕種をしながら訊いた。
「そう思って暴力団担当の方にも問い合わせてみたんだけど、そんな奴は聞いたこともないってことだね。敦賀市の実家のお兄さんや奥さんの話しでは、若いときから仕事が長続きせず女垂らしらしいね。単なる遊び人というところじゃないかな。ハムの免許も敦賀にいるときにとって、そのときからモービル運用はやってるということだね」
「それで、アパートからはなにか手掛かりになるようなものは出てこなかったんですか?」
 関口は溜息をつきながら首を横に振った。
「書物とかプリントのたぐいはきれいに持ち去られてるね。もっとも寝るためだけの部屋のようで、万年床にわずかな荷物しかなかったけどね。部屋を引っかき回したのを隠すためか、きちんと整頓されてはいたけど我々の目はごまかせないね。明らかに犯人が夜のうちにやってきて始末してるよ。睨んでたとおり、部屋からも車からも犯人のものらしき指紋は一切検出できてない。巧妙な奴さ、一筋縄ではいかないな」
「じゃあ、犯人に結びつくようなものはなにもないんですか?」
「ああ、現場の目撃者もいまのところ皆無でさ。お手上げだよ」
 関口はよく欧米人がやる両手を拡げて肩をすくめるポーズをとると、自分を慰めるように言う。「一日ぐらいで犯人が割り出せるようなら警察はいらないさ。それと被害者の司法解剖から死亡推定時刻はハギさんたちが呻き声を聞いた時間とほぼ一致したから、その電波は被害者が発射したものと断定したよ」
「そうですか。でも、それだけじゃ犯人に直接結びつく材料にはなりませんねえ。佐々木さんと偽の7L1LH×局との接点は見出せましたけど、二人と南条がどう結びつくのか、これはさっぱりですねえ。それとも最初から両者はまったく関係ないんでしょうか?」
「いや、そんなことはないよ。これまでの調べがついての限りだけど、偽の7L1LH×と佐々木さんとの接触はそのQSOしかないわけだから、それをワッチしていたか、またはなんらかの方法によってそのことを知ったかして、あのドアの内側にメモっておいたわけだろうからね。殺されている以上、ただの落書きとか単なる偶然なんてのは除外していい。必ずなんらかのつながりはあるさ」
 関口は刑事特有の鋭い眼光を放ってそう言った。

FT-715

「だいたいにして事故の原因を、その偽の7L1LH×局になすりつけるつもりはありませんが、432.52からQSYするのに、メインチャンネルをとおり越して一メガ上の433.52まで動くんですよ。しかも、その周波数もQRMがあるというので衛星通信周波数よりも上の438.52まで動いたんです。全部52の周波数でしたから、ここには書いてなくてもはっきり覚えてますよ。二回の大幅なQSYで神経がそっちにいってしまって、少なからず運転感覚がくるったということはいえるんじゃないですかねえ」
「52にひっかけてのQSYか」
「あのときも変に思ったんですが、QRMがあると言うわりにはこちらで聞いてる分には特に雑音は聞こえなかったんです。車より、八階建マンション屋上のアンテナの方がずっとロケーションはいいはずなのにですよ」
「となると、意図的にQSYしたと考えた方がいいかな」
 関口は両足を机の上に投げ出し、めいいっぱいリラックスしたようすで話しを続ける。「佐々木さんに恨みをもってる奴がそのQSOのとき、なにがしかの仕掛けで事故が起きるように細工した、なんてことはありえないかい?」
「仕掛けというと?」
「例えばSFチックだけどこんなのはどうだい。最近、高い周波数が体や脳に悪影響を与えてないかの研究がされるようになったろう。それと以前アメリカの映画舘だったと思うけど、一種の催眠術の実験で観客にはわからないように映画のコマの途中にコーラのCMを入れておいたら、そのコーラの売り上げが普段よりも伸びたっていうニュースが伝えられていたろう。あれと同じように、佐々木さん自身は知らないうちになんらかの方法で催眠術をかけられて、ある周波数が発信されると、それが脳に作用して無意識のうちになんらかの行動を起こしてしまうんだ。この場合はアクセルを踏みこんでしまうとかさ」
「へえー、そうなると美圭の主張が正しいってことになりますね。ハハ?」
 萩野の笑いとは逆に関口の表情は強ばった。
「DTMF回路を組みこんだ受信装置を付けたらどうなる。それをエンジンをコントロールする電子回路に接続しておくんだよ。最近の車は、メーカーによって呼び名は違うけどEGIとか、EFIとかいうコンピューターでエンジンを制御する装置が付いているのが常識になっているだろう。アクセルとは関係なしにエンジンが吹き上がるようにしておいたらどうなる。この前そんなところまで見たかい?」
「いや、ブレーキ以外なにも見てませんよ。DTMFっていうのは電話機についてる、ピ、ポ、パの音でリモートコントロールするシステムのことですか?」
「ああ、最近は無線機にも付いてるよ。受信側である決まった周波数を認識すると、なんらかの信号を出すようになっている回路のことさ」
「しかし、そうだとしてなんのためにそんな手の混んだことをやる必要があるんですか?」
「もちろん事故に見せかけるためさ。いや、やっぱりだめだな。こんな大掛かりなことは駐車している車にこそこそやれるようなものじゃない。最低でも一日や二日の時間を要するだろうからな」
「それなら可能性はありますよ。だって、車を盗まれて事故の数日前に返ってくるまでのあいだが一週間あったんですよ」
「ほんとかい!」
 それまで椅子にふんぞりかえるようにしてすわっていた関口が跳ね上がって叫んだ。
 ひと息の間が空いた後、二人同時にぼそりとつぶやく。
「まさか!?」
 事実とすれば、あまりに飛び飛びのQSYの不自然さはそれで説明がつく。
「とにかくもう一度事故車を調べてみよう。まだ修理工場にあるのかな?」
「処分は向こうに任せましたからね。さっそく電話して訊いてみましょう。それにしてもおかしな雲行きになってきましたね。ひょっとしたら、美圭の執念深さがこんな発想に結びつけさせたのかもしれませんね」
 関口は一瞬ニヤッとしたが、すぐに表情をもどしてガラス扉の方向を凝視した。